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8月にin-kyo (お店) は長めの休みを取った。のんびりと過ごすつもりでいたけれど、体が空いていたらいたで、何だかんだと予定を入れてしまい、結局ぽっかりと時間が空くこともあまりなかった。こういうのを本当に貧乏性というのだろう。
家の中でひたすら本を読んだりテレビを見たり、何もせずにボーっとするのも大好きなのに、どういうわけか今はあわわ、あわわとした時間の流れの中にいる。
夏休みが始まる前には一日の予定を考えて、紙に書き出すようなことまでしていたのに、その通りに過ごせた日はほんの数日。小学生の頃の方がよっぽどしっかりしていたように思う。
休みも終盤にさしかかると、何に追われているというのでもないのに、無性に焦った。始業式前日に、半ベソをかいて宿題をやっている子どものような気分だ。
結局焦っているだけで何もできず、そうかといってできないことをクヨクヨ思い悩んでいたところで何かが進むわけでもない。そんな気持ちを切り替えるつもりで、夏休み明け前日に掃除やレイアウト替えをしにお店に出かけた。実は休み中にも用事があって何度かお店には行っていた。が、上手くは言えないけれど、休みの日というのは空間の空気が止まっている。止まっているだけではなく、どこかよそよそしい。それはまるで眠っている飼い猫に声をかけて知らんぷりされるような感覚だ。
 
不思議なもので器を移動して掃除をしたり、レイアウトを変えながらものに触れているうちに、さっきまで感じていた空気が次第に無くなって、距離がちぢまってくるような気がしてくる。止まっていた空気が動き出すというのか……。
 
子どもの頃にも夏休みが終わって初めて教室に入ったときに同じ違和感のようなものを感じた記憶がある。自分の席に座っているのに、なんだか落ち着かない。でも「なんだろう?なんだろう」と思っているのは一瞬のことで、友達としゃべっているうちに忘れてしまう程度のものだったけれど。
 
ものを擬人化するのは苦手だし、またそれとは全く違うことなのだけれど、ものが生み出す空気があるように思う。お店を始めるようになって、そのことを今までよりも意識するようになった。目に見えるようなかたちではなくて、感じているのは所詮「空気」だから気のせいといえば気のせいだろう。でもそんなよくわからないことだからこそ、もののおもしろさの深みにとっぷりとはまっている。
掃除を終えて、「夏休みは終わりだよ」とパンパンと手を叩き、まだ寝ぼけ眼のものたちを起こすようなシーンを頭の中で想像してみた。すると手を叩くその音が一番必要なのは私自身だということに、ハタと気づかされてしまった。



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