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イ ン ス タ ン ト

以前に神谷町にある会社で働いていたことがある。
会社の場所は東京タワーのちょうど足元のあたり。
夏はひんやりと涼しげで、
冬になるとキャンドルの灯りのように
ほわっとあたたかい姿が
オフィスの窓からもよく見えた。
見えたというよりも、いつもこちらが見られていたと
思うくらい近い場所にあった。

会社は深夜にフル稼働するような仕事が多かったから
フレックスタイムにする人も多く、朝のオフィスは静かだった。
フロアではたいてい私が一番乗り。
誰かがいたとしてもそれは徹夜で仕事をして
そのまま会社に泊まっていただけ
なんてこともざらだった。

朝、会社に着いてまずやることは窓を開けて
風を通し、コーヒーをいれる準備をすること。
もちろん今毎朝いれているようにお湯を沸かして
ハンドドリップをするわけではない。
よくあるコーヒーメーカーのコーヒーだ。
まずはコーヒーメーカー用のペーパーを準備して
専用の豆をパッケージから出し、
あとは目盛通りの水を注いでスイッチを入れるだけ。

お茶当番が決まっているわけでもなかったし、
誰に頼まれていたわけでもないから
それが私の仕事ではなかったのだけど
習慣のようなものでなんとなく毎日そうしていた。
流れとして今も同じようなことをしている。
が、似て非なり。
だってお湯を注いでスイッチひとつ。
カップラーメンが如く
時間も気持ちもインスタントで、そんなコーヒーを飲みながら
ずるずると毎日が過ぎていた頃だった。

coffee

今振り返ってみてもその前の仕事とも後の仕事とも
まーったく違う世界にぽつんといた。
人生たかだか40年しか生きていないけれど、
その人生の中でも勤めた2年弱がぽっかりと浮いている。
感謝もしているし、そこで出会えて良かったと思える人もいる。
でも何があっても戻ることはないんだろうなぁという場所。
居心地が良いと自分が思える場所とそうじゃない場所が
はっきりと確認できたというだけでも
無駄なことってないとつくづく思っている。

コーヒーメーカーのコーヒーは
夕方になると煮詰まって濃くなり、すえた匂いがしていた。
そのコーヒーを捨てて洗うことから始めるのも
私の朝の日課になっていた。
誰かのためにというわけではなく、
なんとなく気分的なものの作業のひとつとして。

コポコポコポ。
コーヒーメーカーのコーヒーがいれ終わると
初めの一杯を静かなオフィスでひとり飲んでいた。
それで満足していた。

「おっコーヒーのいい匂い」
パーテーションの向こうから声がする。
「はぁ〜」

徹夜明けの誰か?それとも
早めに出勤をした誰かはわからないけれど、
聞こえてくるそんな声。
誰かのためになんて考えてもいなかったし、
スイッチひとつでいれたコーヒーだけど、
人に喜んでもらうことは悪くないなと思った記憶がある。
それがお湯で溶かすインスタントコーヒーだって、
誰かのために買ってきた缶コーヒーも。

どういうわけかここのところイベントで
コーヒーをいれたりしている。
喫茶店をしているわけでもないし、
焙煎をしているわけでもないのにと思いつつ、
誰かに「おいしい」と言われると、
やっぱり嬉しく、あれこれ考えるのをやめにして
その時間はおいしいコーヒーをいれることだけに集中する。
豆もいれかたも違えど、それに気づかされたのは
あの頃だったのかもしれない。
東京タワーにポンポンと肩を叩かれたような気分だ。

偶然なのかなんなのか、今は新東京タワーの
スカイツリーがお店の近くの橋から見えている。
建設中のツリーはどこまで伸びるのだろう?
ずいぶんと背が高くなってきた。

 

 

 

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