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カ フ ェ ・ ブ ラ ジ レ イ ラ

お店のある蔵前のとなり町、
浅草橋の駅の付近には立ち飲み屋が何軒かある。
人気のお店は夕方の、まだ陽が落ち切らないうちから
店先が人で賑わっていて、通りがかりにそんな様子を見かけると
ついふらりとその輪に混じりたい衝動にかられる。
が、妙齢ながら(だからなおさら)さすがに一人で入る勇気が出ずに
未練たらたらで素通りしてしまう。

問屋や工場、そこで働く職人さんなども多いこの界隈は、
働く人たちの町なのだ。
そこで働く人たちが仕事を切り上げてからの一杯。
一日の疲れを家にそのまま持ち帰らずにまずはそこで労う。
そういう場所は洒落てなんかいなくていい。
この町で賑わっている店はどこも決して洒落ていない。
これはあくまでも褒め言葉。

立ち飲みだから長っ尻もせず、
いつも同じ時間に顔を合わせるのか、知り合い同士会話を交わして
サクッと店を出る姿はいかにもこの町の人らしい。
町には町の匂いがあるということを教えてくれる風景だ。

そんな立ち飲み屋にどこか近いものを感じたのが
ポルトガルに旅行へ行ったときに立ち寄ったカフェ・ブラジレイラ。
観光客で賑わうリスボンの町の中心地にあるこのカフェは、
暗い店内に入ると右手にカウンターがあり、
そこは立ち飲みのいわゆるスタンド専用席。
決して広くはないけれど、1階には他にテーブル席もあり、
地下のフロアにも客席がある造り。
店内は混んでいて、観光客も地元の人も
その町で働く人や学生も一緒くた。
それでも古くから変らないのであろうその店らしさ、
町の匂いのようなものは十分すぎるほど店内に沁み込んでいた。

カウンターのスタンド席では仕事と仕事の合間だろうか?
待ち合わせでもしているんだろうか?
顔なじみの客人たちはお店の人と軽く会話をかわしたり、
隣りどうしであいさつをしていたり。
さり気ないやりとりが羨ましい。
格好をつけてそこへ混じってスタンド席でコーヒーなどと
気取りたいと思っても、町歩きに疲れた私と友人は
おとなしくテーブル席に腰を下ろした。

するとコーヒーを飲みながら人の声や足音など、
店内のざわざわとした中に時折まざる音。

ペリーン、ペラーン、ペリーン

薄っぺらい金属が床に落ちるような音。
音の方へ目をやると小さなコーヒースプーンが床に落ちている。
片づけで運んでいるときに落ちたのか、
いや、落としているのに気づいてもお店の人は拾う素振りも見せない。

???

インドではチャイなどを飲み干した陶器の器を
地面に叩きつけて割るという話を聞いたことがあるけれど、
スプーンというのは初めてだ。
スプーンはぺらんぺらんのつくりではあるけれど、
れっきとしたステンレス製。
使い捨てではあるまいし、あんまりなんじゃないかなぁと
床に何本か散らばるスプーンを見つめる友人と私。

coffee

「あのう…スプーンが落ちてますけどいいんですか?」

などと英語もたどたどしいというのに
ポルトガル語で話せるはずもなく、
あのスプーンの行方は謎のまま。
それぐらいの会話が交わせれば疲れも忘れて臆すことなく
スタンド席でのコミュニケーションを楽しんで
旅の思い出をさらに色濃くすることができただろう。


サッと息抜きの一杯。
一杯といってもカフェ・ブラジレイラは
ノンアルコールのコーヒーだったけれど、
今、私が東京で見かけている風景とあのときの記憶がだぶる。
言葉が通じたところで、しかもご近所でも、コーヒーではなく
立ち飲みの酒場にひとりで足を踏み入れるのは、
まだまだなかなか勇気が要る。


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