title/hyoutan





原稿が進まない。
進まないどころか、頭の中はいろんなもので
パンパンに膨れ上がっているというのに
文字が、文章が、出てくる前にこんがらがって出てこない。

体を動かせばめぐりが良くなるかも?
なんて、言い訳をみつけて
気分転換という名の逃避散歩へ出かけた。

家の近くには川が流れている。
そもそも今の場所に住むことを決めたのも、
川が好きでなるべく近くに住みたいと思っていたからだ。

お気に入りの川沿いの遊歩道は天気が良かったというのに人気が少なかった。
ベンチを独り占めして何をするでもなくしばらく川を眺めていると、
向こう岸でも犬を連れたおじさん(おじいさん?)が
ベンチに腰掛けてじっとこちらの方を見ていた。
水上バスやボート、小さな作業船が行きかう。
向こう岸のおじさんも、私もぼんやり構えているというのに
水の上は思いの外、忙しない。

海が近いこの辺りの川は、夏が近づくと川の匂いに混じって
潮の香りがする。
普段は川しか目にしていないから忘れているけど、
目を閉じると海の景色が広がっていく。
と、そこに久しぶりに鼻腔をくすぐる香ばしい匂い。
これは・・・コーヒーを焙煎しているときの香りだ。
香ばしくて甘くて、ミルで挽くときとも液体になったときとも違う匂い。
近くでコーヒー焙煎をしているお店でもあるんだろうか。

ここへ越して来たばかりの頃、
近所の散策に出かけたときにもこの辺りで同じ匂いがして
匂いのする方へ、する方へと歩いて道に迷ったことがある。
方向音痴は知った道に出ることに必死になって、
結局匂いの出所はつかめないまま帰って来て
それっきりになっていたんだっけ。

マンションの5Fに焙煎機がある家に住んでいた時は
外を歩いていると、家から少し離れた思いもよらない場所で
その匂いに気づくことがあった。
マンションの窓に備え付けられた煙突。
豆を焼き始めると、うっすらと本当にうっすらと煙が出る。
その煙は煤臭さよりも、もうすぐ焼き上がりますよと
豆が知らせてくれるいい香り。
焙煎のことはまったくわからないけれど、
豆がパチパチとはぜて、あのいい香りがすると、
無事に焼き上がったんだと
自分が焙煎していたわけでもないのになぜかホッとした。

あぁ懐かしい。同じ匂いだ。
風がどこかから運んで来てくれたんだ。
ベンチに座ったままその匂いのする方へ顔を向け、
出所を確かめようともせず、しばらくその匂いを楽しんだ。



coffee



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