第14回 鈴木屋酒店 兵藤 昭さん
こっちこっち、と案内されたのは寝室だった。入り口のすぐ脇には、焦げ茶色のどっしりとした本棚が壁に沿って置かれている。お店のすぐ近くにある仕事机とは別に、仕事机らしきものも横付けされていた。まるで大学教授の研究室にあるような重厚な本棚の横には、仕切りを隔てて大きくて低いベッドが横たわっていた。このアンバランスな感じに、驚くと同時に笑ってしまった。しかもこの本棚、いつの時代にどうやって二階に運び込まれたのだろうか。二階の窓からじゃないと上がらなかったのではないだろうか? 想像するに重さも相当な本棚は、本を収納することでますますどっしりとした風情をまとっているように思えた。
「昔はね、図鑑が詰まっていたんですよ。ほら、昆虫とか植物、動物とか宇宙もあるような全集みたいなもの。おそらく僕のものだったと思うんですけれどね。あまりページを開いた記憶がないんですよ。この本棚は、僕が生まれたときからここにあったもので、少し前に自分のものとして譲り受けたものです」「すごい本棚ですね」という私の一言には、明確すぎるくらいの返事が戻ってきた。
兵藤 昭
さんは、鎌倉市由比ガ浜で100年以上続く、老舗酒屋の四代目店主。その昔は日本酒、ビール、焼酎なんでもござれで、灯油も売っているようないわゆる街の酒屋さんだった。兵藤さんが酒屋を継いでしばらくした後、今のようにナチュール系ワインで埋め尽くされた店へと変貌したそうだ。私がワインを嗜むようになったのは、このお店のおかげによるところが大きい。きっと近所にこのお店と兵藤夫妻がいなかったら、ここまでワインを飲む人にはなっていなかったと思う。開かずの、知らなかった扉を開けてしまって以降、私は手持ちのワインがなくなるといそいそとお店へ向かい、いつでも飲みたいときに飲めるよう数本を見繕ってもらう。ワインのことに限らず兵藤さんの話は、ヘぇ~と感心することや、おもしろい!、といったことが多い。話しながら途中で、いつも「あ、この感じ」と思う節が必ずあるのだ。うちのダンナ曰く、お店でかかっている音楽がいいという。「きっとあぁいう音楽を聴いているからいいワインを選べるんだよなぁ」なんて、ワインの「ワ」の字もわからないくせに利いたふうなことを言っていた。ちなみにその音楽とは"Derek Bailey”や”Kip Hanrahan”なんだけれど。
それである日、普段って本読んだりしますか? と失礼ながら聞いてみると、横にいた奥さんの沙羅さんが「本!? 漫画ばっかりよー、昭くんは」と大笑いしながら教えてくれた。本人もニコニコしながらうなずいている。同年代の兵藤さんの読む漫画ってどんなだろう? 私たちが少年少女と言われた時代は、男性の読む漫画と女性の読む漫画が明らかに分かれていた。今のように男性漫画と呼ばれるものを女性も普通に読むということは少なかったように思う。『ドラえもん』や『天才バカボン』のようなものとは別に、という意味だ。例えば、『マカロニほうれん荘』のようなものは、男性が読む漫画、と小学生の私は思っていた。でも実はこっそり従兄弟のお兄さんの漫画を楽しく読んでいたりしたんだけれど……。そんな遠い記憶が呼び覚まされ、その頃、兵藤さんは何を読んでいたのか気になって仕方がなくなってしまった。それでこのたび本棚拝見をお願いしたのだ。
ところが、ところがだ。撮影当日お店を訪れ「兵藤さんの漫画ってどんなの読んでいたんですか?」と尋ねると、沙羅さんが大きな声で「エーーーーッ!! もう捨てちゃって無いですよ!」と、ただでさえ大きな目をさらに見開いて驚きの叫びをあげた。「え? なんでまた捨てちゃったのー?」と私。「あまりに漫画ばっかりあってね、こんなに狭いのにどうするのよー!っていう、やりとりののち、涙をのんで処分することにしたんですよ」と兵藤さん。となると、本は!? と思ったが、撮影スタッフもしっかり揃っている。やるしかないでしょう、と二階に上がったのだ。
そうなるときっと、兵藤さんの本棚にはワインについての蔵書が並んでいるだろうと、景色を想像しながら階段を上った。当たり前すぎる景色をどう綴ろうか、とまで考えていた自分を恥じたのは、寝室に案内されたところからだった。これはもしや!? と漫画がなくなっていたショックをすっかり忘れ、まもなく目にする本棚への期待にじわじわと興奮してきた。そしてやっぱり、やっぱり予感は的中した。
本棚にささった本の背に見えたのは「ニーチェ」「ニーチェ」「ニーチェ」! 一体何冊あっただろうか? パッと見ただけでこの名前が矢の如く目にささってきた。
「兵藤さん、大学で何専攻していたんですか?」勝手に口からそんな言葉がこぼれてしまった。まさかの展開。漫画ばかり読んでいる人だったはずの兵藤さんの本棚は、ニーチェのほか、よくよく見てみるとアンドレブルトン、スピノザと私の苦手分野がずらり並んでいた。
「大学は機械工学だけど」と、キョトンとしながら応えてくれた。これまたワインともかけ離れた分野を学んでいたんだなぁ~。兵藤さんのあちらこちらで垣間見る博学ぶりのワケが急にグッと距離を縮めてこちらへやってきた。で、なぜこんなにもニーチェなのかと訊いてみると。
「『2001年宇宙の旅』で使われている音楽が何なのか、たどっていったところからニーチェにたどり着いたんですよ」とぽつり。
1968年、兵藤さんと私が生まれた年に発表された映画『2001年宇宙の旅』のテーマ音楽は「ツァラトストラはかく語りき」。ニーチェの同名の著作からヨハン・シュトラウスがイメージをして作曲したとも言われている曲だ。そしてこの映画の思想もまた、ニーチェの超人思想や永劫回帰といったことが言われていると何十年にも渡って評論され続けている。私にはまったくもって何のことやらわからず。哲学的なことは苦手中の苦手。何から話をしてこの山を崩していこうか考えていた。本棚に並ぶ背の文字は、黒目をそっと横にずらして見る限り、ゲーテの『ファウスト』、第一次世界大戦を生き抜いたフランスの文芸批評家・モーリスブランショ、マゾヒズムとサティズムの語源である二人を描いたジル・ドゥルーズの『マゾッホとサド』、馬場あき子の『鬼の研究』といった民俗学など、多岐に渡っていて、そのどれもが私には宇宙どころかそれよりも遠い彼方にあるものばかりで、心の中で白目をむいていた。編集さんとカメラマンさんもいつになくツッコミがない。いつもなら「私もこれ好きです」とか「読んでみたい」といったコメントがあるのだが、二人とも無言で出していただいた麦茶を飲んでいる。黙っているから、麦茶が喉を通る音まで聞こえて、ますます焦ってしまった。けれども白目をむきながら思っていたのは、本の内容を理解するしないは別にして、どうして兵藤さんがこんな難しいものばかり、しかも寝室に置いているんだろうかということだった。
「兵藤さんっていつもこんなに難しいこと考えてたんですね」と言うと、大笑いして、「僕はね、わからないものだけれど、もしかしてって思って本を買っているかなぁ。これなんて1%も理解できてない(そう言って、モーリスブランショの『明かしえぬ共同体』を指差した)。自分がわかるものは買わない。ビビビときたものを買っている感じ。わからないものが好きなんですよ。わからないままでいいし、わかろうともしていないよ」とさらりとした返事が返ってきた。でも、マゾッホの本は、ページをめくるのがもったいないほどおもしろいとも言う。そんななか、唯一共感できそうだったのがナンシー関の『無差別級』。週刊誌の連載やテレビでのコメントは当時、私もかなり注目していたし、同感し、大笑いしていた。今こういう人がいなくなってテレビがおもしろくなくなったと兵藤さん。それも同感だった。我が家にテレビがなくなってどれくらい経つだろう。少なくとも2年は経つかな。たまに出張先のビジネスホテルで深夜か朝にテレビをつけると、知らない人がたくさん映っていて自分の時代遅れ加減に驚く。新聞では知り得ないようなことも放送されているが、5分とつけていられなくなっている自分がいた。
もう一冊は宮沢りえの初ヌード写真集『サンタフェ』。発売のニュースを新聞で読んだ時には思わず涙ぐんだ(笑)と、兵藤さん。「これは僕じゃなくて兄貴が買っていたもの。久しぶりに引っ張り出して見てみたんだけど、いやぁ輝いてましたね~。今もいいけど、このときはほんとすごかった!」
発売当時に私が目にしたのは、大学時代の彼が買っていたものだった。確かに、女の私でも美しいと思えたし、しなやかな体のラインは、つるんとしていてエロくて、思わず印刷とわかっていながら、ページをなでてしまったことを思い出した。これをニヤニヤしながら見ていた彼に嫉妬したことも思い出したけれど、宮沢りえに嫉妬するなんて私もずうずうしい。今になってそこが恥ずかしくなった。
ちょっぴり和んだところに娘の安珠ちゃん(7歳・小学二年生)が自分の本を抱えてやってきた。
「安珠のね、気に入っている本も見せてあげる」
お店に行くと、ニコニコしながらやってきては気に入っているものや、自分の描いた絵を見せてくれる安珠ちゃんに私は「かおりん」と呼ばれ、ありがたいことに友達として認定されているようなのだ。安珠ちゃんが持ってきたのは『長くつ下のピッピ』『まんがことわざなんでも事典』『星の王子さま』、それにミヒャエル・エンデの『モモ』だった。私が今も読み返す『モモ』や『長くつ下のピッピ』、訳や時代、国が違うものを収集している『星の王子さま』があったことに感動して「いい本ばっかり読んでるね~」と言うと、「全部、ママの本!」と元気なお答え。沙羅さんの趣味と私の趣味はかなり近かった。
本を読むことが大好きな安珠ちゃん。今はこの抱えてきた本をお母さんの沙羅さんに寝る前に読んでもらいながら少しずつ理解していて、いつかは自分一人で読みたいと思っているのだそうだ。その横で、父である兵藤さんは、わからないものは無理にわかろうとしなくてもいいと思いながら哲学書を読みつつ、ごろりとする。気づけば、3人揃ってグーグー寝ている。そして翌朝、読みかけの本をまた本棚に戻す。本棚はだから、寝室にあるのだ。
帰りがけ、本棚の取材をしてきて初めてご本人から本を借りて読んでみることにした。ニーチェとナンシー関の二冊。果たして何か変わるか、わかるかと思って、私もベッドに横になりながら何度となくページをめくる努力を重ねた。が、ナンシー関は涙が出るほど大笑いしているうちに寝る。ニーチェは同じ行を何度も読み返しているうちページをめくることなく寝てしまう。その繰り返しとなってしまった。年が明けぬうちに、借りた本を返そう。ニーチェを読み切る日は、しつこいようだけれど、宇宙よりも遠い彼方にあると思うので。
ワインの味わいを表現する複雑さと、ワインそのものをつくる、ある種、魔法のような不思議さと、実験のような楽しさが入り混じっている感じ。兵藤さんの本選びはそれに似ているように思えた。本棚を見せてもらった後の心地よさと、何とも表現しにくい感じもまた同じだった。