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01 ガラスペン『ガラス工房 炎』
筆記具が好きで、なかでも万年筆にはめっぽう弱い。万年筆に弱いということは、インクにも弱いということで、インクを使うガラスペンにも弱いのだ。念のために申し上げるが、弱い=大好き。つまり、前後の見境なく、欲しくなってしまうのである。好きが高じて、二年前に、自分の好きなモノや人だけを紹介した文房具の書籍をつくったほどだ。
その本は、カタログ的なつくりではなく、かなりエモーショナルな雰囲気でブツに寄り、物づくりの現場にも赴いた。そこで、かねてよりお会いしたいと思っていた、京都のガラスペン職人である菅 清風さんを訪ねたのだった。当時、清風さんは96 歳。矍鑠としていらして、ウイットにとんだお話をしてくださった。やんわりとした京都の言葉も心地よかった。
それまでも「職人」と呼ばれる方々をたくさん取材する機会に恵まれ、そのたびに、なにかを生み出す「手」をじっくり見せてもらっている。
清風さんにも、「手を撮らせてください」とお願いすると、気に入りのガラスペンを両手で携え、私の前に出してくださった。
これが、長年、ガラスペンをつくり続けてきた「手」か。肉眼で見て、ファインダーで覗いて、その「手」に衝撃を受けてしまった。美しくも尊い……チープだが、そんな言葉が口をついた。ご自分がつくったガラスペンがいちばん素敵に見える様子をわかっていらっしゃる、そんな「手」だった。
つるりとしたきれいな肌には深い皺が刻まれている。ガラスペンよりも、清風さんの、この手を遺したいと強く思い、「いつか、職人さんの〝手〞をテーマにした本をつくろう」と決めた。そして、やっと、本書にたどり着いたのだ。
ガラスペンというと、北海道・小樽の土産品を思い浮かべる。いかにもガラス製といった体で、華奢な様子がそれはそれで儚くていい。でも、太いペン、たっぷりのインクフローを好む自分には、小樽のガラスペンはちょっと違う。
ドイツ製も試したし、東京の職人さんの名品も試した。どれもすばらしいには違いないが……やっぱり、私の手には馴染まない。
なのに、この清風さんのガラスペンは、しっくりとし、かつ道具としてもガンガン使える屈強さもあった。屈強と書いたが、その見た目は非常に美しい。ボディ(軸)に施された、緻密で繊細な凹凸でつくられる螺旋の形状は〝漣〞のごとく。いつまでも見飽きない。そして、ゆるやかにカーブを描きながら、ペン先へと収斂されていく8本のライン。
持った角度や、手にする時間、真っ白なノートの上か、落ち着いたデスクの上か、などにもよって表情を変える。キラキラと煌めき、はたまた陰影も放つ――この美しさは、清風さんのガラスペンならでは。華美ではなく機能美。いつも、モノを選ぶときは、意味のある美しさに魅かれる。その最たるモノがこのガラスペンかもしれない。
一般に、ガラスペンは軟質ガラス製だが、清風さんは、あえて加工が難しい〝硬質ガラス〞を使う。硬質ガラスのメリットは耐久性に優れていること。割れさえしなければ、子にも孫にも伝えることができるはず。ほどよい重さで(ガラスペンにしてはズシリとしている)、筆記バランスもいい。
ところで、なぜガラスペンで筆記ができるかというと、「毛細管現象」を利用しているから。ペン先をインクに浸すと、8本の細かなラインがインクをスーッと吸い上げる。ペン先を持ち上げてもインクが垂れることは決してない。が、紙に当てると、インクが紙に吸い取られて文字が書けるという仕組みなのだ。
万年筆用のインク(ボトルタイプ)なら、なんでも可。ガラスペンの魅力のひとつは、使ったら水でサラサラとすすぎ、やわらかなペーパーで拭けばよし。すぐに違うカラーのインクも使うことができる点。万年筆では、そう易々とインク(カラー)チェンジができないが、ガラスペンならお手の物なのだ。
そんなガラスペンが誕生したのは、明治35年(1902)にさかのぼる。〝ヨーロッパからの舶来品〞のようだが、なんと日本人が生み出したもの。東京の風鈴職人の佐々木定次郎氏が開発した。当初は、オールガラス製ではなく、竹製のペン軸に、軟質ガラスのペン先を挟んだものだった。ガラスの先端がすり減りやすく、ペン先は使い捨ての消耗品だったという。
墨汁も利用でき、昭和の半ばぐらいまでは事務用品としてポピュラーだったが、ボールペンが台頭すると、次第に使われなくなってしまう。
オールガラスの一体型が生まれたのは30年前、平成になってからのこと。意外にも最近なのか、と驚かされる。清風さんがガラスペンをつくるようになったのも、26年ほど前のことだ。
清風さんは大正9年(1920)、神戸に生まれた。太平洋戦争中は海軍航空隊に徴用され、整備士として働いた。広島・呉鎮守府で増設された戦闘機隊「第三三二海軍航空隊」に所属し、呉に近い陸上基地である岩国にいた。清風さんは、敗戦の10日ほど前、岩国の基地で空襲に遭い、三本の指を欠損した。
「なくした指を見られるのが嫌で嫌で。だから人目にふれず、ひとりでできる職人仕事に就いたんです」と言う。先に〝手〞を撮らせてもらったと書いたが、そのとき、そう言われるまで指が欠けていることにまったく気が付かなかった。両手でガラスペンを携える、あの美しい持ち方は、なくした指を気取られないため。そうした点を見ても、清風さんは、つねに美学を追求しているように思えた。
敗戦後、工芸が好きでなにか物づくりを、という思いもあって、大阪で金属加工や金型製造に携わる職人になった。そこでガラスにも興味を持ったという。昭和48年(1973)には、福岡の硬質ガラス加工職人に師事し、技術を学ぶ。そして翌年、京都に移住し、ネオン管(ネオンサイン)加工業をはじめるのだった。
ネオンサインとは、ガラス管のなかにガスを封入し、放電されることによって光を放つもの。明治43年(1910)のフランスの化学者、ジョルジュ・クロードが発明したもので、同年のパリ政府庁舎で初公開されたのがはじまりだ。その後すぐに広告照明として使われ発展した。1920年代にはアメリカに普及し、一大フィーバーに。ガラス菅は、曲げて加工することもできるため、さまざまな広告サインに用いられるようになり、同時に日本にも広まった。
ネオンサインのわかりやすい例として、バドワイザー(Budweiser)を思い浮かべてもらえばいいだろうか。さまざまな色を出すことができるのは、赤や橙系ならネオンガス、青紫系ならアルゴンガスというように、ガスを使い分けているからだ。
清風さんは、そうしたネオン管加工を本業としながらも、ガラス製品の可能性を探ってきた。
「私は人がやらないことに挑戦したい。真似できないものをつくりたいという思いがあって、いろいろなガラス作品をつくってきました」
巨大なステンドグラスや、一時間を計測できる大きな砂時計、ひょうたんの形状をした〝ぽっぺん〞などを生み出した。ぽっぺんは、ガラスの弾力性をいかしたオモチャで、そっと息を吹き込むと軽やかな音が鳴り〝ビードロ〞の名も持つ。喜多川歌麿の浮世絵にも描かれたといえばイメージできるだろうか。
清風さんが〝ひょうたん型ぽっぺん〞を開発したのは、昭和から平成へと変わった1989年のこと。ちょうどこの年から、「100歳を迎える方や、平和で明るい世界を目指して活躍している人々」に贈り物をするというボランティア活動をはじめたという。清風さん、69歳のときだった。
「人がやらないものに挑戦したい、真似されたらすぐに辞める」をモットーに、さまざまなガラス製品をつくってきた清風さん。
いよいよガラスペンをつくるようになったのが平成8年(1996)、76歳のことだった。70代後半にもなってまで、まだまだ「人と違うことをする」という意欲がすばらしい。世間にオールガラス製のガラスペンが登場したのが、その7年前のこと。きっと、その華奢なガラスペンを見て、「もっと違う、もっといいものができる」と、得意の硬質ガラス加工の腕をいかして、唯一無二の存在となるガラスペンの開発に取り組んだのだろう。
「より細い線が書けるように」「インクのボタ落ちを防ぐように」など改良に改良を重ねて、いくつものガラスペンが誕生してきた。
なかでも非常に難しい技術が「ダイヤ絞り」と呼ばれるものだ。これは、直径10ミリから20ミリの硬質ガラス菅を1200℃にもなるバーナーの炎で炙り、右にねじっては押して引き、左にねじっては押して引きを繰り返す。この一連の作業を、微調整を加えながら延々と繰り返すのだが、何度も何度も行うことで、軸に螺旋状の紋様が生まれるのだ。これこそが清風さんの真骨頂で、太い軸の場合、これを生み出すのに四時間以上もかかるほど。
「寸分違わない工程で、やり通すことが大切」と言うだけに、相当な集中力が必要とされている。
この工程を見たい、ちょっとだけでも見せてほしいと思ったが、それは叶わなかった。
「集中力を持続させて、一貫して行う作業です。途中で止めれば製品にならない。わずかな物音にピクっとしただけでも手元が狂う。だからダメです」
その代わり……と、硬質ガラス菅をバーナーで炙り、曲げてくださった。一瞬でカタチづくられてしまう。ちょっと気を抜いたらまったく違うカタチになってしまうだろう。この炎と延々と対峙すること。その集中力と精神力。そうしてつくられたガラスペン。大切に使わなければ、と深く思う。「大切に」と言うものの、清風さんのガラスペンは丈夫である。よその悪口ではないが、いつもと同じように使っていたら、「パリンッ」と割れたものもある。ガラスペンは、美しくとも道具、つまり筆記具でなければならない。ストレスなく使い続けること、それができるという安心感、これも清風さんのガラスペンが支持される理由だ。
もうひとつ、清風さんの魅力はオリジナルのインク壺にある。ボトルの底部に特殊なスポンジを敷いたもので、そこにインクが充填されている。ペン先が欠けることのないようにした(丈夫だからそうそう欠けることがないとはいえ)、配慮もうれしい。
そして、このガラスペンを持ち運ぶのにピッタリのペンケースが存在する。それが、本書でも紹介している「インダストリア」のオムレットペンケースだ。外側は美しく堅牢なバケッタレザーで、内部が厚手のネオプレーン。そこに挿せば、いつでもどこでも、このガラスペンを使うことができる。ガラスペンを持ち歩くことを諦めていた人におすすめしたい。
清風さんのもと、ガラスペン職人になりたいと訪ねてくる若者は何人もいた。だが、なかなか続く人は少なかった。「無心で何時間も作業を続ける」ということは、生半可な気持ちでは到底できない。離脱する人が多いなか、20年勤めた職人がいたが、先般、〝ガラス〞をテーマにした作品を生み出すアーティストとして独り立ちをしている。
そして現在、清風さんの孫である清流さんが、工房にいる。〝二代目〞として菅 清風ブランドのガラスペンをつくっているのだ。物心ついたときには、繊細で美しいガラスペンへの好奇心があったそう。子どものときから馴染んでいたネオン管やガラスペンの世界、職人仕事をしたいとおのずと思うようになり、高校生のときに祖父に弟子入りした。
弱冠23歳。とかく職人仕事の世界は、経験値がものをいう。いや、年輪を重ねていればいるほど、われわれユーザーはなんとなく安心しがちだ。が、清流さんと話をして、清流さんの仕事姿を見て、なにより、清流さんのつくるガラスペンをさわって……そうした年月にとらわれるのは意味がないと感じた。
清風さんはガラスペンの制作現場を披露しなかったが、清流さんは快諾してくれた。ガラスペンづくりの、どの工程も重要でいずれも集中力を欠くことはできない。これは清風さんも清流さんも変わらない。でも、清流さんは、「物づくりの臨場感が伝われば、それだけ、その品に興味を持つ人が増えると思うんです。だから、これからは積極的にお話ししたいんです」
そうした理由もあって、ペン先部分と軸を結合する作業を見せてくださったのだ。幼少期から工房に出入りし、清風さんのサポートをしてきただけに、すばやく慣れた様子である。が、「いや、ここはもう少し」と自己を冷静に分析しながら手を進める。
そこには、「清風の意志を継いで、清風の質を保ち、ガラスペンをつくり、多くの人に使ってもらいたい」という決意が見て取れる。そのためには、PRやマーケティングが必要だと、情報デザイン系の大学へ進学した。だが、自分でつくることへの興味を抑えられず大学を辞めた。そして、師匠である祖父のもと徹底的に技術を習得。とはいえ、まだまだ、長年、研鑽してきた師匠の技に敵うことはない。ガラスを扱うのは難しく、挫折することもしばしばで。
たとえば、炎とガラスの関係だ。バーナーの火は下からだけ。硬質ガラス管の表面すべてを均等に炙らないと、伸びるところと伸びないところのムラができてしまう。均等にもねじることができない、というガラスの性質をコントロールするのが非常に難しいそうだ。
また、清風さんの教えとしては「基礎の仕事、単純な作業であっても、それをやり続けること。続けることで上達する」だが、清流さんは、そこに満足ができなかった。当初は、その言葉を無視して、どんどん新しい技にトライしたそうだが、「中途半端なものをお客さまに出せるわけがない」という清風さんの言葉にハッとしたという。以来、清流さんは黙々とガラスペンと向き合った。基本に忠実に、でもそこに自分なりの試行錯誤を重ねて、菅 清風の名に恥じない一本をつくるようになった。
「やはり、いちばんの願いは、お客さまに喜んでいただきたい、長く使っていただきたいですからね」
そしてこの十月、清風さんはこの世を去った。
技術をそのまま受け継ぎ、品をつくることだけが、継承者の仕事ではない。今の世相にあったアプローチがあると、清流さんは、さらに強く思うようになった。
廃材のガラスを使ったワークショップや、伝統工芸職人とのコラボレーション、友人の画廊に納めるなど、新たな取り組みにもチャレンジしている。
「時代のニーズに合わせたアピールや売り方を工夫すること。ガラスペンをより進化させて次の時代……百年後、二百年後にもこの技術が残るようにしたい」
〝真似できないもの〞をつくり続けた、大正生まれの清風さん。そして、祖父の意思を継いだ平成生まれの清流さん。令和という新しい時代に、ふたりの職人の仕事と思いが続いていく。
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全国書店にて2019年12月発売
30〜90代の職人16名を取材した書籍『職人の手』。2019年12月の発売を記念して、特別に4篇をWeb連載で公開します。
01 ガラスペン『ガラス工房 炎』
菅 清風
職人の〝手〞の美しさ
筆記具が好きで、なかでも万年筆にはめっぽう弱い。万年筆に弱いということは、インクにも弱いということで、インクを使うガラスペンにも弱いのだ。念のために申し上げるが、弱い=大好き。つまり、前後の見境なく、欲しくなってしまうのである。好きが高じて、二年前に、自分の好きなモノや人だけを紹介した文房具の書籍をつくったほどだ。
その本は、カタログ的なつくりではなく、かなりエモーショナルな雰囲気でブツに寄り、物づくりの現場にも赴いた。そこで、かねてよりお会いしたいと思っていた、京都のガラスペン職人である菅 清風さんを訪ねたのだった。当時、清風さんは96 歳。矍鑠としていらして、ウイットにとんだお話をしてくださった。やんわりとした京都の言葉も心地よかった。
それまでも「職人」と呼ばれる方々をたくさん取材する機会に恵まれ、そのたびに、なにかを生み出す「手」をじっくり見せてもらっている。
清風さんにも、「手を撮らせてください」とお願いすると、気に入りのガラスペンを両手で携え、私の前に出してくださった。
これが、長年、ガラスペンをつくり続けてきた「手」か。肉眼で見て、ファインダーで覗いて、その「手」に衝撃を受けてしまった。美しくも尊い……チープだが、そんな言葉が口をついた。ご自分がつくったガラスペンがいちばん素敵に見える様子をわかっていらっしゃる、そんな「手」だった。
つるりとしたきれいな肌には深い皺が刻まれている。ガラスペンよりも、清風さんの、この手を遺したいと強く思い、「いつか、職人さんの〝手〞をテーマにした本をつくろう」と決めた。そして、やっと、本書にたどり着いたのだ。
ネオンサインからのはじまり
ガラスペンというと、北海道・小樽の土産品を思い浮かべる。いかにもガラス製といった体で、華奢な様子がそれはそれで儚くていい。でも、太いペン、たっぷりのインクフローを好む自分には、小樽のガラスペンはちょっと違う。
ドイツ製も試したし、東京の職人さんの名品も試した。どれもすばらしいには違いないが……やっぱり、私の手には馴染まない。
なのに、この清風さんのガラスペンは、しっくりとし、かつ道具としてもガンガン使える屈強さもあった。屈強と書いたが、その見た目は非常に美しい。ボディ(軸)に施された、緻密で繊細な凹凸でつくられる螺旋の形状は〝漣〞のごとく。いつまでも見飽きない。そして、ゆるやかにカーブを描きながら、ペン先へと収斂されていく8本のライン。
持った角度や、手にする時間、真っ白なノートの上か、落ち着いたデスクの上か、などにもよって表情を変える。キラキラと煌めき、はたまた陰影も放つ――この美しさは、清風さんのガラスペンならでは。華美ではなく機能美。いつも、モノを選ぶときは、意味のある美しさに魅かれる。その最たるモノがこのガラスペンかもしれない。
一般に、ガラスペンは軟質ガラス製だが、清風さんは、あえて加工が難しい〝硬質ガラス〞を使う。硬質ガラスのメリットは耐久性に優れていること。割れさえしなければ、子にも孫にも伝えることができるはず。ほどよい重さで(ガラスペンにしてはズシリとしている)、筆記バランスもいい。
ところで、なぜガラスペンで筆記ができるかというと、「毛細管現象」を利用しているから。ペン先をインクに浸すと、8本の細かなラインがインクをスーッと吸い上げる。ペン先を持ち上げてもインクが垂れることは決してない。が、紙に当てると、インクが紙に吸い取られて文字が書けるという仕組みなのだ。
万年筆用のインク(ボトルタイプ)なら、なんでも可。ガラスペンの魅力のひとつは、使ったら水でサラサラとすすぎ、やわらかなペーパーで拭けばよし。すぐに違うカラーのインクも使うことができる点。万年筆では、そう易々とインク(カラー)チェンジができないが、ガラスペンならお手の物なのだ。
そんなガラスペンが誕生したのは、明治35年(1902)にさかのぼる。〝ヨーロッパからの舶来品〞のようだが、なんと日本人が生み出したもの。東京の風鈴職人の佐々木定次郎氏が開発した。当初は、オールガラス製ではなく、竹製のペン軸に、軟質ガラスのペン先を挟んだものだった。ガラスの先端がすり減りやすく、ペン先は使い捨ての消耗品だったという。
墨汁も利用でき、昭和の半ばぐらいまでは事務用品としてポピュラーだったが、ボールペンが台頭すると、次第に使われなくなってしまう。
オールガラスの一体型が生まれたのは30年前、平成になってからのこと。意外にも最近なのか、と驚かされる。清風さんがガラスペンをつくるようになったのも、26年ほど前のことだ。
清風さんは大正9年(1920)、神戸に生まれた。太平洋戦争中は海軍航空隊に徴用され、整備士として働いた。広島・呉鎮守府で増設された戦闘機隊「第三三二海軍航空隊」に所属し、呉に近い陸上基地である岩国にいた。清風さんは、敗戦の10日ほど前、岩国の基地で空襲に遭い、三本の指を欠損した。
「なくした指を見られるのが嫌で嫌で。だから人目にふれず、ひとりでできる職人仕事に就いたんです」と言う。先に〝手〞を撮らせてもらったと書いたが、そのとき、そう言われるまで指が欠けていることにまったく気が付かなかった。両手でガラスペンを携える、あの美しい持ち方は、なくした指を気取られないため。そうした点を見ても、清風さんは、つねに美学を追求しているように思えた。
敗戦後、工芸が好きでなにか物づくりを、という思いもあって、大阪で金属加工や金型製造に携わる職人になった。そこでガラスにも興味を持ったという。昭和48年(1973)には、福岡の硬質ガラス加工職人に師事し、技術を学ぶ。そして翌年、京都に移住し、ネオン管(ネオンサイン)加工業をはじめるのだった。
ネオンサインとは、ガラス管のなかにガスを封入し、放電されることによって光を放つもの。明治43年(1910)のフランスの化学者、ジョルジュ・クロードが発明したもので、同年のパリ政府庁舎で初公開されたのがはじまりだ。その後すぐに広告照明として使われ発展した。1920年代にはアメリカに普及し、一大フィーバーに。ガラス菅は、曲げて加工することもできるため、さまざまな広告サインに用いられるようになり、同時に日本にも広まった。
ネオンサインのわかりやすい例として、バドワイザー(Budweiser)を思い浮かべてもらえばいいだろうか。さまざまな色を出すことができるのは、赤や橙系ならネオンガス、青紫系ならアルゴンガスというように、ガスを使い分けているからだ。
清風さんは、そうしたネオン管加工を本業としながらも、ガラス製品の可能性を探ってきた。
「私は人がやらないことに挑戦したい。真似できないものをつくりたいという思いがあって、いろいろなガラス作品をつくってきました」
巨大なステンドグラスや、一時間を計測できる大きな砂時計、ひょうたんの形状をした〝ぽっぺん〞などを生み出した。ぽっぺんは、ガラスの弾力性をいかしたオモチャで、そっと息を吹き込むと軽やかな音が鳴り〝ビードロ〞の名も持つ。喜多川歌麿の浮世絵にも描かれたといえばイメージできるだろうか。
清風さんが〝ひょうたん型ぽっぺん〞を開発したのは、昭和から平成へと変わった1989年のこと。ちょうどこの年から、「100歳を迎える方や、平和で明るい世界を目指して活躍している人々」に贈り物をするというボランティア活動をはじめたという。清風さん、69歳のときだった。
美しい紋様を生み出す精神力
「人がやらないものに挑戦したい、真似されたらすぐに辞める」をモットーに、さまざまなガラス製品をつくってきた清風さん。
いよいよガラスペンをつくるようになったのが平成8年(1996)、76歳のことだった。70代後半にもなってまで、まだまだ「人と違うことをする」という意欲がすばらしい。世間にオールガラス製のガラスペンが登場したのが、その7年前のこと。きっと、その華奢なガラスペンを見て、「もっと違う、もっといいものができる」と、得意の硬質ガラス加工の腕をいかして、唯一無二の存在となるガラスペンの開発に取り組んだのだろう。
「より細い線が書けるように」「インクのボタ落ちを防ぐように」など改良に改良を重ねて、いくつものガラスペンが誕生してきた。
なかでも非常に難しい技術が「ダイヤ絞り」と呼ばれるものだ。これは、直径10ミリから20ミリの硬質ガラス菅を1200℃にもなるバーナーの炎で炙り、右にねじっては押して引き、左にねじっては押して引きを繰り返す。この一連の作業を、微調整を加えながら延々と繰り返すのだが、何度も何度も行うことで、軸に螺旋状の紋様が生まれるのだ。これこそが清風さんの真骨頂で、太い軸の場合、これを生み出すのに四時間以上もかかるほど。
「寸分違わない工程で、やり通すことが大切」と言うだけに、相当な集中力が必要とされている。
この工程を見たい、ちょっとだけでも見せてほしいと思ったが、それは叶わなかった。
「集中力を持続させて、一貫して行う作業です。途中で止めれば製品にならない。わずかな物音にピクっとしただけでも手元が狂う。だからダメです」
その代わり……と、硬質ガラス菅をバーナーで炙り、曲げてくださった。一瞬でカタチづくられてしまう。ちょっと気を抜いたらまったく違うカタチになってしまうだろう。この炎と延々と対峙すること。その集中力と精神力。そうしてつくられたガラスペン。大切に使わなければ、と深く思う。「大切に」と言うものの、清風さんのガラスペンは丈夫である。よその悪口ではないが、いつもと同じように使っていたら、「パリンッ」と割れたものもある。ガラスペンは、美しくとも道具、つまり筆記具でなければならない。ストレスなく使い続けること、それができるという安心感、これも清風さんのガラスペンが支持される理由だ。
もうひとつ、清風さんの魅力はオリジナルのインク壺にある。ボトルの底部に特殊なスポンジを敷いたもので、そこにインクが充填されている。ペン先が欠けることのないようにした(丈夫だからそうそう欠けることがないとはいえ)、配慮もうれしい。
そして、このガラスペンを持ち運ぶのにピッタリのペンケースが存在する。それが、本書でも紹介している「インダストリア」のオムレットペンケースだ。外側は美しく堅牢なバケッタレザーで、内部が厚手のネオプレーン。そこに挿せば、いつでもどこでも、このガラスペンを使うことができる。ガラスペンを持ち歩くことを諦めていた人におすすめしたい。
大正から令和に続く思い
清風さんのもと、ガラスペン職人になりたいと訪ねてくる若者は何人もいた。だが、なかなか続く人は少なかった。「無心で何時間も作業を続ける」ということは、生半可な気持ちでは到底できない。離脱する人が多いなか、20年勤めた職人がいたが、先般、〝ガラス〞をテーマにした作品を生み出すアーティストとして独り立ちをしている。
そして現在、清風さんの孫である清流さんが、工房にいる。〝二代目〞として菅 清風ブランドのガラスペンをつくっているのだ。物心ついたときには、繊細で美しいガラスペンへの好奇心があったそう。子どものときから馴染んでいたネオン管やガラスペンの世界、職人仕事をしたいとおのずと思うようになり、高校生のときに祖父に弟子入りした。
弱冠23歳。とかく職人仕事の世界は、経験値がものをいう。いや、年輪を重ねていればいるほど、われわれユーザーはなんとなく安心しがちだ。が、清流さんと話をして、清流さんの仕事姿を見て、なにより、清流さんのつくるガラスペンをさわって……そうした年月にとらわれるのは意味がないと感じた。
清風さんはガラスペンの制作現場を披露しなかったが、清流さんは快諾してくれた。ガラスペンづくりの、どの工程も重要でいずれも集中力を欠くことはできない。これは清風さんも清流さんも変わらない。でも、清流さんは、「物づくりの臨場感が伝われば、それだけ、その品に興味を持つ人が増えると思うんです。だから、これからは積極的にお話ししたいんです」
そうした理由もあって、ペン先部分と軸を結合する作業を見せてくださったのだ。幼少期から工房に出入りし、清風さんのサポートをしてきただけに、すばやく慣れた様子である。が、「いや、ここはもう少し」と自己を冷静に分析しながら手を進める。
そこには、「清風の意志を継いで、清風の質を保ち、ガラスペンをつくり、多くの人に使ってもらいたい」という決意が見て取れる。そのためには、PRやマーケティングが必要だと、情報デザイン系の大学へ進学した。だが、自分でつくることへの興味を抑えられず大学を辞めた。そして、師匠である祖父のもと徹底的に技術を習得。とはいえ、まだまだ、長年、研鑽してきた師匠の技に敵うことはない。ガラスを扱うのは難しく、挫折することもしばしばで。
たとえば、炎とガラスの関係だ。バーナーの火は下からだけ。硬質ガラス管の表面すべてを均等に炙らないと、伸びるところと伸びないところのムラができてしまう。均等にもねじることができない、というガラスの性質をコントロールするのが非常に難しいそうだ。
また、清風さんの教えとしては「基礎の仕事、単純な作業であっても、それをやり続けること。続けることで上達する」だが、清流さんは、そこに満足ができなかった。当初は、その言葉を無視して、どんどん新しい技にトライしたそうだが、「中途半端なものをお客さまに出せるわけがない」という清風さんの言葉にハッとしたという。以来、清流さんは黙々とガラスペンと向き合った。基本に忠実に、でもそこに自分なりの試行錯誤を重ねて、菅 清風の名に恥じない一本をつくるようになった。
「やはり、いちばんの願いは、お客さまに喜んでいただきたい、長く使っていただきたいですからね」
そしてこの十月、清風さんはこの世を去った。
技術をそのまま受け継ぎ、品をつくることだけが、継承者の仕事ではない。今の世相にあったアプローチがあると、清流さんは、さらに強く思うようになった。
廃材のガラスを使ったワークショップや、伝統工芸職人とのコラボレーション、友人の画廊に納めるなど、新たな取り組みにもチャレンジしている。
「時代のニーズに合わせたアピールや売り方を工夫すること。ガラスペンをより進化させて次の時代……百年後、二百年後にもこの技術が残るようにしたい」
〝真似できないもの〞をつくり続けた、大正生まれの清風さん。そして、祖父の意思を継いだ平成生まれの清流さん。令和という新しい時代に、ふたりの職人の仕事と思いが続いていく。
連載もくじ >>
菅 清風
1920年兵庫・神戸市生まれ(享年98)
◆店舗情報
ガラス工房 炎
京都府京都市左京区北白川東伊織町26-2
Tel:075-723-1300(電話受付9~17時半)
営業時間:9~18時
www.kanseifu.com
山﨑 真由子
1971 年東京生まれ。大学卒業後、雑誌編集業に従事。フリーランスの編集者として食、酒場、筆記具、カメラ、下町、落語など“ モノとヒト” にまつわる分野での仕事多数。著書に『林業男子 いまの森、100 年先の森』、『ときめく文房具図鑑』(山と溪谷社)など。
『職人の手』
全国書店にて2019年12月発売
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