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30〜90代の職人16名を取材した書籍『職人の手』。2019年12月の発売を記念して、特別に4篇をWeb連載で公開します。


03 篆刻家『かまくら篆助』
雨人(うじん) 加藤俊輔




世界最速の男、誕生


 自らを〝世界最速の男〞と称するのが、北鎌倉に工房を構える、篆刻家(てんこくか)雨人(うじん)こと加藤俊輔(しゅんすけ)さんだ。
 篆刻とは、書道や日本画を嗜む人にはお馴染みの印で、作者が自分の作品に落款(サイン)として押すものである。それにしても〝世界最速〞とはいったい?
「彫る時間が世界で一番速いの。ここにも〝一個を30秒で〞って書いているでしょ」と看板を指差す。30分でもなく3分でもなく、30秒で彫ってしまうというミラクルを起こすのが雨人さんなのだ。
 試しに注文すると、1センチ四方程度の石に、印刀で文字をふたつほど瞬時にデザインし彫り上げる。うん、たしかに30秒だ。



 私がはじめてオーダーしたのは五年ほど前のこと、共通の友人を介して知り合い、愛称を彫ってもらった。そのときも30秒で完成した。いや、おしゃべりをしていたからもう少しかかったかもしれない。
 でも、この「30秒」がキラーワード。このスピード感、そして〝世界最速〞の謳い文句もあって、道行く人々の足が止まる。
「大半のお客さんは30秒を求めてないんだよね。『ゆっくりやってください』って言ってくれる」
 とはいえ、ほぼ30秒をキープ。でも、どんな文字がくるかわからない。瞬時に鏡文字で考え、デザインして彫るのは尋常じゃない。猫やクルマ、楽器や食べ物など「絵」も彫る。どんなリクエストにも対応する順応性と瞬発力だ。どこでそんなトレーニングを?



「崖っぷちの状況だからできるわけ。背に腹は変えられないというか。複雑な注文の場合は、『どこからいらしたんですか?』と世間話をして、いつスタートしたかわからなくするけどね(笑)」
 冗談とも本気ともつかないが、雨人さんが「篆刻ライブ」と名付けた実演販売のスタイルを確立したのは、まさに〝崖っぷち〞がきっかけだ。さかのぼること15年前。29歳のとき、雨人さんは自分の工房から外に飛び出した。神奈川・川崎でのアートマーケットだった。
「出店料が2000円で、売り上げはすべて自分のもの。路上スタートとしてはよかった。でも野外で炎天下。暑さは我慢できたんだけど、材料の石にヒビが入っちゃってさ」
 初出店はまあまあの売り上げだった。そこでほかの催事にも声をかけられ、フリーマーケット、さらには百貨店と販路が広がっていった。



「デパートの『職人展』に呼ばれたときは、自分のランクが上がった気がしてうれしかったなぁ。まったく売れなかったんだけどね」
 だが、この職人展を契機に別の催事にも声がかかった。そこで雨人さん、人生何度目かのピンチに合う。
「アートマーケットはいいの。ある程度、篆刻を理解している人が来てくれるから。説明することもなく、無駄なおしゃべりもせず、黙々と彫っていればいい」
 ところが、だ。
「ショッピングモールの本屋さんの店頭で。前を通るのは通勤帰りだったり、お惣菜を買いに来たりと、篆刻になんの興味もない人たちばかり。誰も関心を持ってくれなくてビックリした。で、一週間のノルマは40万円なのに三日で一万円にもなってない……。売り上げはバイヤーと施設と俺とで均等に割るんだけど、これじゃ、企画してくれた会社に迷惑をかける。さすがにマズイと血の気が引いた!」
 客引きの技術も話術もない。さあ、どうする?
「書店のビジネス書コーナーに走って。ありとあらゆるビジネス本の目次をめくってヒントを探した。お客さんが来ないから、時間だけはあったからね」
 持ち前の集中力もあって。また、なにより切羽詰まった状況――雨人さんの言葉を借りれば〝崖っぷち〞ゆえに、その目次から「三つのヒント」を導き出した。
「ひとつは速さ、もうひとつは値段、そして可愛さ」
 これがドンピシャだった。



「お客さんは書道も篆刻も知らない人たちだから、真面目なモノを欲していない。最初は〝30分で5000円〞という設定だったんだけど、でもさ、好きでもないことに、そんなに払えないよなーって気が付いた。
で、〝30秒で彫ります。1200円でやります〞と看板を書き換えたら、すぐに行列ができちゃった!」
 地獄に仏とはまさにこのことだ。けれども、
「俺、30秒で彫ったことがなかったんだよね。ま、お客さんが来るまで練習すればいいや、とはじめたら、あっという間に並んで、いきなり本番に」
 行き当たりばったり。はじめてのお客さんはお母さんと〝蒼ちゃん〞という名前の女の子だった。
 彫る手順はこうだ。
1 彫る面に軽くヤスリをかけ、マジックで黒く塗る
(彫った部分を認識しやすいように)。
2 文字を脳内で鏡文字にして、ラフを描く(これも脳内で)。
3 彫る。
4 完成。試し押しをして、はいどうぞ。
 これで30秒だが、それは現在のこと。初挑戦ではまったくこの手法に至っていない。
「超焦った。デリバリーのピザ屋さん感覚で、30秒過ぎたら罰金になるんじゃないかと思ったぐらい。もう、デザインどころじゃない。ともかく字が彫られていればいいや、と開き直りつつ、めちゃくちゃ集中した」



 宣言通り30秒でフィニッシュ。蒼ちゃんに手渡すと、「わ〜、すごい!」と大喜びしてくれた。
「ホッとしたと同時に、これで食いっぱぐれないと思ったね。終わってから三日間寝込んだけどさ」
 でも……「篆刻ってこういうのだっけ?」と感じた方、するどいです。雨人さんには「本来の篆刻」と「遊びのはんこ」とがある。今話したのはもちろん後者。だが、これができるのは、本来の篆刻技術があってこそだ。雨人さんの実演を見ると、手軽にサッとできるようだが、そこには長くて深い修業があった。
「修業? いや、ないないない。俺、天才だからすぐにできちゃったんだよね」





書にのめり込む青春時代


 父方の祖母は日本画家、母は書道の師範。というと、雨人さんが篆刻家になったのは自然の成り行きと思えるが、そう単純ではない。
 幼少期から、たくさんの習い事をしていたものの、才が開くわけでなく、勉強も嫌いで苦手。地元の公立高校だと「レベルの低さがバレると嫌だから」とちょっと遠くの私立に進学した。
 勉強嫌いの雨人クンは、当然高校でも勉強をしなかった。勉強をしないくせに、173人中173番目になったときは心底絶望したという。
 大学は無謀だが進学はしたい。誰でも入学できる新設の短大の存在を知り、渡りに舟とばかりに親に相談すると、「母親が資料を取り寄せてくれたんだけれど、まったく違う学校だった!」
 真相はこうだ。雨人さんは「タンダイに行きたいんだけど」と言い、お母さまは「いいじゃない、タンカイね」と理解した。
 雨人さんのタンダイ=短大で、お母さまのタンカイ=「淡海書道文化専門学校」のことだった。いわゆる聞き間違いだが、なんという運命の巡り合わせか。
「淡海は、母親が所属していた書道団体の専門学校だったんだよね。一応、どんなところか知っておこうと学校に電話をしてみた」
 すると「女子学生は70人で男子は4人だけ。だから男子は大歓迎」と言われ、すぐさま願書を提出。
「女子にモテそうという下心があって。試験なんてないよ、早いもん順。たぶん俺が一番に送ったはず」
 そして翌年の春、晴れて入学。キャンパスは滋賀県の東近江市だ。長閑でなにもない環境だった。男女交際禁止、アルバイト禁止、クルマ&バイクも禁止。和服姿のおばあさん先生ばかりのなか、することといえば「書」しかなかった。



 母親が書道の師範で、小さいときから筆を持っていたとはいえ、雨人さんには長いブランクがある。楽観していたが、書道の精鋭だけが集まっている場だ。ちょっとやっていましたレベルではまったく太刀打ちできなかった。
 だが、負けず嫌いなのか、手先が器用なのか、書道以外にすることのない田舎生活だったのか。それらが重なり合って、雨人さんは書道にのめり込んでいく。
「ひたすら字を書いていた。授業はすべて書道に関係することだけだし、宿題がすごく多いし。淡海は書家の原田観峰(かんぽう)が創立して、その流派の指導者を育てるための学校だったんだよね。だから、観峰先生のお手本通りに完璧にコピーするのが目的。うまく書けると楽しくなっちゃって。すっかりハマってしまった」
 寮に戻れば、まず墨をすり、飽きることなくずっと書いていたという。これほどまでに真剣に取り組んだのは人生初。気づいたら、かなりのレベルになり、全国の観峰流の指導者が集う会に選出され、揮毫(きごう)するまでになったという。
「卒業後の進路を決めるとき、先生方から東京の研修所に誘われたけれども、観峰流という団体に純粋培養された人間になるのはごめんだ」と、誘いを断った。




波乱万丈の幕開け


 観峰流に勤めるつもりはさらさらなかったが、まだ存命だった原田観峰氏から、「中国に学校をつくるから、希望者はついて来い」と言われ、すっかり中国に行く気になった雨人さん。
 が、結局中国に学校はできなかった。つまり、次なる道は断たれた。
「でも中国には絶対に行くと決めていて。そのちょっと前にあった〝篆刻〞の授業がかなりおもしろく、篆刻を極めようと思っちゃったんだよね。篆刻をやるには本場の中国でしょ? 書道で食べていくのは大変な今、篆刻しかないって確信した」
 世の中に書家や書道好き、版画や絵手紙好きも多くいる。作品には必ず落款を押すから、篆刻の需要があると踏んだのだ。そこで、淡海の先生に、中国人の篆刻家を紹介してもらい、中国留学へ……



「いや、まだ早い(笑)。淡海卒業後は、飯田橋にある中国語の専門学校に入ったの。とりあえず話せないと困るし、なにより中国で暮らすための金を貯めなきゃいけなかったから。学費? 親にしてみれば〝短大二校分〞は、四年制大学一校分と同じだったんじゃない。それは遠慮なく払ってもらいました」
 留学資金を貯めるため、リアルな中国語を学ぶために横浜の中華街でバイトをはじめて二年。卒業と同時に中国へと旅立った。雨人さん、22歳のことだった。



 ようやく篆刻修業となるが、これまたすぐには進まない。紹介状がありながら、師のもとには行かず、なぜか「働きながら篆刻を教わろう」と考え、篆刻を扱う店を渡り歩いた。結果は惨敗、当たり前だ。
「この世の終わりだと絶望したとき、ポケットに手を突っ込むと、中国の篆刻家の住所と電話番号が書いたメモがあったんだよ!」
 果たして、その篆刻家に電話をかけると、
「なにやってるんだ、さっさと来い!」と怒られて、ようやく雨人さんの中国修業の幕が上がった。
 修業先は、北京にある「首都師範大学」だった。淡海の先生が斡旋(あっせん)してくれた中国人の篆刻家というのは、この大学の教授である高惠敏(こうけいびん)氏だ。
 行き当たりばったりで根拠のない自信に満ちている雨人さん。篆刻に関しても授業でかじった程度にも関わらず、己を天才と自負していた。
「高先生から『片腕として働いてくれ』と言われるはずだったのに、『篆刻をやったことがあるのか? 君は篆書体をわかっていない』と呆れられた」



 篆書体とは、古来中国(明の時代)の書体のことで、日本の紙幣やパスポートにも使われる由緒正しきもの。象形文字を基本としているため、可読性が低く、偽造しにくい。いわば篆刻の基本となる文字だ。だが、雨人さんは、その存在すら知らなかった。淡海では、観峰流の文字しか習わないし、見ることもなかった。
「篆書体を書けないで彫れるわけないだろう。とにかく書けるようになれ」と、教本を渡され、徹底的に模写することになったのだ。
「手本通りにひたすら書くことに、またハマって。何カ月か書いているうちに、篆刻のことを忘れるほど楽しくなった。で、ようやく高先生からお許しが出て。篆刻の技術と概念を教わったんだよね」
 篆刻修業の基本は、ひたすら模刻。先人たちの印を、寸分違わず、欠けているところも、膨らんでいるところもすべてを模刻しなければならない。
「ちまちまやり続けた。たぶんこのときの俺は、世界で一番篆刻に打ち込んだ人間だと思う」
 ただ、古来の篆刻には、それほど惹かれなかった。
「超一流だけど、線がグチャグチャしていて。これなら、俺のグチャグチャのほうがセンスあるってね」
 この感覚が、冒頭で紹介した、現在の「遊びのはんこ」につながっていく。





日本一の篆刻家になる!


 二年の篆刻修業を終え帰国。「首都師範大学」で得たのは、篆刻の技術と知識、そして将来の妻だった。
 妻となるケレンさんは、イスラエルからの留学生として国際関係を学んでいた。雨人さんとは同棲を経て、結婚を約束したのだった。
 日本に帰ってきたが、華々しい篆刻家デビューが待っていたわけがない。世間は甘くなく、日本橋にある書画材料の老舗でサラリーマンになった。同時に、篆刻家の豊岡歩斎(ほさい)氏に師事し技術を磨いていく。そして翌年、24歳でケレンさんと結婚。
「うちのカミさん、給料がいいから、俺が会社を辞めて主夫になろうと。家事をして、いい字を書いて篆刻を彫っていればいいかなって」
 そこで「日本一の篆刻家になります」と宣言して、会社を辞めた。だが、辞めた翌月に妻の妊娠が発覚。無職の夫と、妊娠で仕事を辞めざるを得ない妻――
「子どもが生まれるのに収入の見込みがないなんてヤバすぎるでしょ。すぐに近所のファーストキッチンに雇ってもらった。朝6時から午後2時までバイトして、そのあと、篆刻仕事。篆刻の注文は一カ月に一万円くらいはあった。それだけじゃまったく食えないけれど、注文が途切れないから辞めることができなかった」
 平成13年(2001)に第一子である娘さんが誕生。フリーターのまま、子どもが生まれるという未知の世界に突入した。家族を養うことができるのか? 子どもを守ることができるのか? できそうもない。
「だから、イスラエルに移住することにした」



 妻の実家を頼って、親子三人イスラエルに向かった。まるで漫画のような人生だ。随所がおもしろすぎる。
 篆刻道具も書道道具も日本に置いてきた。心機一転の再出発だ。住まいは、ケレンさんの実家に世話になり、ケレンさんはイスラエルの大企業に就職した。
 当の雨人さんは、語学学校に行き、ヘブライ語を話せるように。教会にも通い、そのうちブライダルに関わるイラストを描く仕事をしてみたり。「結局、いろんなことから逃げていただけ」と当時を振り返る。
 そして平成15年(2003)、第二子が誕生。ちなみに、長女がたみちゃん、次女があやちゃんという。イスラエルに逃げて二年が経った。そして雨人さんのターニングポイントは二年周期である。
「日本語に飢えていたから、毎月届く日本のビジネス雑誌を何度も繰り返して読んでいた。その中に『女子大生が自作のテディベアをホームページで販売して注文大殺到』という記事があって。その手があったか!」
と衝撃を受けた。



 篆刻の注文が少ないのは、自分の存在が知られていないから。でも、この存在を全世界に発信できれば、実力があってセンスもいい自分に注文が来る。そう確信して一家で帰国した。行き当たりばったりさに電撃的要素がプラスされた感がある。
「パソコンとソフトを買って、自分でホームページをつくったのにまったく反応がなかった」
 予定では、アップの翌日からオーダーが入るはずが、アクセスしているのは自分だけという状況だった。
「あんなにいい会社に勤めていたかみさんを辞めさせて、無理やり帰ってきてさ。なのに注文はゼロ、見てくれる人もなし。鬱になる寸前だったけれどもアイデアがパッと閃いた」
 そのアイデアとは、書家や画家へのアプローチだ。「篆刻をつくりませんか?」というDMを送りまくった。だが最初はほとんど無視されていた。
「そりゃそうだよね。文面は全部コピペでどこにも心がないんだもん。でも、作品をさり気なくほめて『駆け出しの篆刻家なので1000円で彫りますよ』って送ったら反応が急増した」
〝コピペDM〞ではゼロだったのに、改善してからは返信率8割、注文率は5割にまでにアップ。なのに、
「彫れども彫れども赤字で。だって送料もこっち持ち、印材の材料費も考えず。それで1000円。苦しいに決まっている」
 とはいえ、値段を上げるのが怖く、しばらくは無茶を続けた。だが、転機が訪れる。それが「路上での実演販売」だった。




脇役だからちょうどいい


 これをきっかけに、自分をブランディングすることを覚え、ついには〝世界最速〞と銘打って、篆刻家・雨人の評判がどんどん広まっていく。今ではラジオパーソナリティの顔を持つ。役者もはじめたが、生業は終始一貫、篆刻家だ。
 ジェットコースターのような人生だが、篆刻家一本で生計を立てている人はおそらく雨人さんと、あとふたりぐらいしかいない。
 気軽にオーダーできる「遊びのはんこ」が注目され、需要も増えている。また、書画のための「本来の篆刻」も唸るほどすばらしい。雨人さんの彫るものはすべて、人の心を響かせる。
「はんこは、俺とお客さんの思っているものが合致する。顔を見て彫っているからね。でも書画の篆刻はわからない。『おまかせで』と言われても、篆刻は作品の一部になるもので、その作品との相性も重要。お客さんの期待値はマックスで。でも、俺はそれが怖い」



 天才だと言い切る自分と不安に苛まれる自分。
 その間を行ったり来たりしながら、雨人さんは篆刻と向き合っている。でも、篆刻そのもののことはあまり話さない。 「俺にとって篆刻はふつうのこと。『今日の朝ごはん、おいしかったよね、昨日もおいしかった、一昨日もおいしかった』とわざわざ言わないのと同じ。どこまでも日常なんだよ。それに篆刻は、作品や手紙の付随物で脇役。俺の人生もそう。自分が主役で生きたことはないからさ」
 こんなに饒舌なのに脇役と言い切るとは、あまりにも意外だ。
「そうかな? 俺、世の中に主張したいことがなくて。現状に満足しているの。だから篆刻をやっているんだよね。だって篆刻の題材に俺は必要ないもん。人の名前を彫ればいい。その人たちに喜ばれれば幸せ」
 篆刻は、お客さんにとっては脇役にすぎない。が、脇役といってもないがしろにされるのではなく、名バイプレイヤーなのだ。だから、雨人さんは、
「その印を見たときに、お客さんが泣き出すとか笑い出すとか、どう心を揺さぶるかを考えて彫ってきた。最近は、森羅万象というか、さまざまな世界観を、篆刻に閉じ込められたら最強だなぁって」
 日常だからこそ、ずっと続けることができる。脇役だから自分を誇張せず、誰かのために、その人のことを考えて彫ることに専念できる。毎日毎晩、彫り続けているからこそ、新しいカタチが見えてきた。
 雨人さんは、会いに来てくれる人たちを喜ばせるために、今日も彫る。たぶん明日も明後日も。




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雨人 加藤俊輔

1975年 神奈川・横浜市生まれ

◆店舗情報
かまくら篆助
 神奈川県鎌倉市山ノ内375
 Tel:0467-24-2246
 営業時間:11~18時
 定休日:水曜
 ※臨時休業あり、事前にHP等でご確認ください
 tensuke.co.jp

山﨑 真由子

1971 年東京生まれ。大学卒業後、雑誌編集業に従事。フリーランスの編集者として食、酒場、筆記具、カメラ、下町、落語など“ モノとヒト” にまつわる分野での仕事多数。著書に『林業男子 いまの森、100 年先の森』、『ときめく文房具図鑑』(山と溪谷社)など。




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