タイトルデザイン:峯崎ノリテル ((STUDIO))
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「働いて生きること」は、人の数だけ、物語があります。取材でお会いした方、ふだんからお世話になっている方、はたまた、仲のいい友人まで。これまでに出会った、他の誰とも似ていない仕事をしている「自分自身が肩書き」な人たちに、どのようにしてそうなったのか、話を聞きにいきました。
写真:藤田二朗(photopicnic)
海を舞台に生きる知恵を伝導する
ちゅらねしあ 八幡 暁 さん(海洋人間)
この体ひとつで、どこまで行けるのか。
生きるために必要なものを自力で手に入れながら
根源的に生き延びる方法を、その人は模索し続ける。
そこに、海があるかぎり。
八幡暁さんをひらく、しごとの話。
◉ 名前
海洋人間
◉ この仕事を始めたきっかけ浜辺で食べたとれたてのウニ
八幡暁(やはた・さとる)
1974年、東京都出身。海に生きる人々の暮らしに触発され、国内外の漁村を見てまわる。2005年、沖縄・石垣島に移住。「ちゅらねしあ」設立、八重山諸島をフィールドにした“生きる”を実感できる唯一無二のツアーを開始。オーストラリアから日本までカヤックで横断する「グレートシーマンプロジェクト」、海から日本を再発見する「海遍路」はじめ、海における人間の知恵を使った生きざまを体現している。
www.churanesia.jp
手足を動かすのはなんのため?
──東京・福生で生まれ育った八幡さんが漁師に興味をもって、海をベースに暮らすようになったのはなぜですか?
親父の海好きに影響されたんでしょうね、簡単にいえば。
──お父さんはどこの人なんですか?
北海道育ちです。親父は僕が26歳のときに他界したんですが、死んでからわかったことには、八幡家は親父が小さかったころ、漁師だったらしいんですよ。
──うわあ、知らずして、血に導かれたんだ!
漁師で船団を組む親方だったようで、祖父さんか曾祖父さんの時代、ニシン漁をしているときに新造船が沈んでしまって、乗組員も亡くなり、莫大な借金を負ってしまった。貧乏になって大変だったそのときのことを親父はすごい覚えていたようですね。だから、これからの時代は勉強しないと世の中を渡っていけないという思いが強かったんでしょう。親父には勉強しろってよく言われてました。兄たちは勉強してたけど、僕は勉強嫌いで諦められてたな。だから漁師の家系だってことは知らなかったんですが、家ではよく親父が魚をさばいてて、アンコウが一匹丸ごと食卓に上ったりしてました。お相撲さんが優勝したときにしか出てこないようなデカい真鯛とか(笑)。
──東京の一般家庭ではなかなか見かけない光景。
北海道の海に遊びにいけば、親父が海に潜ってウニやムール貝をとってきたりしてました。いまでは密漁のルールが厳しく敷かれていますが、昔は、土地の者は許されるような暗黙の了解があったんでしょうか。まあ、ウニや貝をとるのはべつに難しいことではないけど、それでも経験がなければできないですよね。で、それを浜辺で火を焚いて食ったのがものすごくおいしかったっていうのが、最初の食の記憶です。その感動が大きかったから、おそらく学生時代に“海”というキーワードに引っかかってしまったんでしょうね。ちょうど、子どものときからずっとやってた運動をやめてしまったときでもあって。
──何をやってたんですか?
小学生と中学生のころは野球、高校と大学はアメリカンフットボール。本気ではやってましたけど、まあ四流でした(笑)。アメフトをやるために大学に入ったようなものなんですが、体育会系のしきたりが嫌で辞めちゃったんです。で、目的がなくなってしまったときに、たまたま見かけた新聞記事に出ていた漁師に魅了されてしまい、一方的にその人に会いにいっちゃった。
──八丈島に。
そう。結局、会ってもらえなかったんですけどね。でも地元の漁師さんと知り合って、わけを話したら、もっとすごいやつを紹介してやるよって。その人は素潜りの達人でした。一緒に潜らせてもらって、人間ってこんなことができるんだ!って感動したんです。深い海に潜って、魚を突いて、その場で締めて、食べる。それらの行為すべてがすごいと思って。
それまでは、体を動かすといえばスポーツだったから。スポーツって、競争して勝つとか記録を更新するといった目的があるじゃないですか。でも魚をとるのは、つまり手足を動かすのは、生きるためなんだ!って。街に暮らしてたら普段、“生きるため”なんてこと意識しないけど、初めてそれにふれた瞬間だった。身のまわりにあるたいがいのものはなくても死にはしないけど、食い物がなければ死んでしまう。だから人間は、食うってことがとにかく大事。生きるってことの実感というのかな。自分もここから始めたい、と思ったんです。
魚さえとれれば死なない
──その思いが今日まで続いてるんですね。ところで、就職したことがないそうですね。
はい。学生時代、まわりが就職活動してるときには、俺は就職しないって宣言してましたから。で、大学を卒業した翌日に、出ました。
──どこへ?
海へ(笑)!
── でも、じゃあどうやって生計を立てていたんですか?
そんなこと、考えてなかったですもん。
──実際、どうやって生きていたわけ?
魚をとって。魚さえとれれば死なないっていう心持ちになっていたから問題なかった。
──おお! どこで魚をとっていたんですか?
いろんなところで。1ヶ月バイトして旅費を貯めては3ヶ月旅をする、というのを繰り返してました。沖縄、長崎、北海道、インドネシア、トルコ……とにかく行ってみたいところを訪れては、現地の漁師に会いにいくという生活。
そうやって興味のある場所をひととおりまわったころには、どこにいてもやれるっていう自信がついていたんです。やれるっていうのは、生きられるという意味。海にいれば死なないっていう確信をもつようになっていました。
じつは学生のとき、就職しなきゃ不安だっていう気持ちも少しはあったんですよ。でも、そういう考え方をするのは意識的にやめようと思って。どっちが得かみたいなことだと、有利なほうの選択しかしなくなるから。だから、俺がやりたいことを選ぶんだと決めてしまおうと思ったんですね。それで、このころにはもう、自分で生きられる、になってた。
──その確信が自分の芯にあるっていうのはすごく強い。このご時世はとくに、みんながそれぞれにそう思えたらいいのにって思います。
食べ物を自分で手に入れられるっていうのはめちゃくちゃデカいですよ。いま上の子どもが小学3年生で、勉強はあんまりしませんけど、魚だけはとれる。魚のとり方、水源の探し方、野草の食べ方も教えてあります。だから、父親としての俺の役割はもう終わったようなもんだと思ってます。仕事なんかなくても、水と食い物さえ確保できればどこででも生きていけるから。生きてればOKって、よく言ってるんですけどね。
道なき道が開かれる
──カヤックとはいつ出会ったんですか?
25~26歳のとき。歩いて行ける、気になる場所にはひととおり行って、世界をもっと見てみたい、そのための移動手段が欲しいと思っていたときに知ったんです。僻地でも道路がつながってれば結局、お金を使って暮らしてるじゃないですか。道路から離れて初めて、電気や水道が通ってない暮らしがあるわけで。まあ、カヤックだってグラスファイバーでできてるから文明の利器ともいえるんですが、少なくともエンジンは使わず、人力で移動する道具です。文明のないところで暮らしている人たちも手漕ぎの船で漁をしていたりするので、学びを得れば、少しは同じ土俵には上がれる気がしていました。
──道がなくて海からしかアクセスできないような場所でも、それがたとえ船が接岸できないような断崖絶壁でも、カヤックでなら、上陸できる。カヤックを手に入れたことで、世界中行けないところはなくなった!と言ってましたよね。ちなみに海外の漁村に個人で海から入るときって、入国手続きはどういうことになるんですか?
それが、船舶と違ってカヤックの場合は、どうすればどうなるっていうルールはないもんだから、難しくて。
──決まりはないんだ。他にそういうことをする人がいないからか。
そのつど手探り。担当官によって、許可が下りたり、下りなかったり。いずれにしても、いきなりOKってことはまずないですね。だから政府の高官みたいな人を探してきて、できるだけ直接交渉する手立てをとるのがいちばんの早道です。
──その耳寄り情報、私には不要だわ(笑)。
ある意味、海を渡ることよりも難しい。僕にしたって、海の暮らしを知りたくて、漕がなきゃそこに行けないからそうしてるだけであって。あんな大変なこと、やらなくていいならやりません。
──他に方法がなくて、しかたなくそうしている。
人間がどこまでできるのか知りたい気持ちももちろんありましたけどね。さらに、そこに住んでる人たちにアプローチするためでもあります。僕自身がリスクを負って人力でその海を渡ったからこそ、地元の人たちの気持ちがわかる。そうか、こんなに激しい海で漁をしてるから、そういう考え方になるんだな、とかね。
淡々とちゃんとやれれば腑に落ちる
──そもそも石垣島に定住したのはなぜなんですか?
自然も人もすばらしかったし、トレーニングの場として最適だったから。
──カヤックの?
うん。激しい海域を渡っていくための練習をしなきゃいけないから。行く場所はだいたい赤道直下なので、体が暑さに慣れていないとしんどいんですよ。だから体をつねに高温下においてトレーニングするっていう。そういう意味で沖縄は国内でいちばんあったかいし、はじめにカヤックを漕いだのが西表島だったんで、土地勘があったこともあって。
で、この場所で働くことを考えてみた末に思いついたのが、自分の身体の隠された可能性を感じられる、生きることを体験させるツアーをやったらいいんじゃないかと。そこまで求めている人は多くないかもしれないけど、少しはいるのかな、と。自分がそうだったから。
──それで「ちゅらねしあ」を立ち上げたんですね。最初はどうやってお客さんを呼んだんですか?
オープンした年は、オンシーズンなのにお客さんはひと月で10人足らず。でも、その年に単独で西表から那覇まで漕いだんです。当時の僕はカヤック業界で無名中の無名でしたけど、なんか無茶なことをしたやつがいるぞって噂が広がったのかな。カヤックをやっている人が少しずつ来てくれるようになりました。
キャンプツアーでは、僕がとってきた魚を直の焚き火にくべて食わせるでしょ。ダッチオーブンで熟成パンをつくったりチキンをグリルするようなおしゃれアウトドアとは趣がかなり違って(笑)、超ワイルドな漁師式だから、お客さんは驚いたのかも。それが口コミで広がって、2年目からはそれなりに忙しくなりました。
ガイドというのは、一度に相手にできる人数は少ないけれども、直接伝えられるので、僕にとってはすごく合っている仕事。ただ景色のいい場所に連れていくだけじゃなくて、その人の価値観をちょっと揺さぶるような体験をサポートできるのが、自分の役割としても嬉しいですね。沖縄の青い海と青い魚を見せるだけでも、たいがいは喜んでもらえるんですけど、自分が楽しいと思える意識を保つうえでも、いまのやり方はいいと思ってるんですよ。
──生きることと仕事が分け隔てなく、一緒くたになっているんですね。生きることと直結しているというか。
うん。自然相手の農家などにしたって、休みの日なんてないですもんね。生きることは休めない。生きるためにやるべきことを、淡々と、ちゃんとやれれば、ありがたいと思って生きられるんじゃないですかね。「いただきますって言いなさい」なんて諭すことよりもずっと、ああ、日々生きられているな、ありがたいなって、腑に落ちやすいと思う。
なぜそれをするのか
──私が八幡さんと初めてお会いしたのは約10年前です。
というと30代半ば、周りから見たら、わかりやすい活動をしていた時期ですね。前人未到の海をカヤックで渡る!みたいなこともしていたので少し冒険的要素が強かった。
そういう時期は、もう過ぎたというのか、そうした海域を終えたというのか。知っておきたい世界を見てきて、学びたいことがある程度、満たされたのかもしれない。どういう能力があれば海を渡っていけるか、どうやればどこまで行けるのか、どうなると死んでしまうかということが、経験則から具体的にイメージできるようになったので。もともと、激しい海に挑戦すること自体を目的にしていたわけではなかったし。人が自然とどうやって暮らしているのか実感できたのも大きかった気がします。自分の子どもが生まれたことも大きいですね。僕が見て感動してきたこと、人が生きることを、子どもにどう伝えようかということに関心が変わってきたんです。それこそ10年くらい前から。
──子どもというのは、まずは当然、我が子のことだと思うけど、世の子ども全般のこともいっている?
まずは自分の子どもに何か伝えられることがあるかって考えるじゃないですか。遠征に出ればお金もかかるし、その間は仕事もできないわけなので、家庭を顧みず、そこまでしてもやる意味があるのか考える。で、自分のそんな行為を正当化するために、子どもに伝えるべきことがあるからやるんだ!的な(笑)。じゃないと、ただの道楽になっちゃうから。要は、自分はなぜそれをするのかを振り返ることが増えたんですね。そうして考えることで、自分が何に感動したのかとか、何を伝えたいのかということが言語化できるようになってきました。
ちょうどそんな時期に、フィリピンの黒潮の源流海域にある漁村の調査に協力してくれないかと高知大学から依頼がきたんです。やることは僕がいままでやってきたこととほとんど一緒なんですけど、違ったのは、教授やゼミ生を連れて現地に行かなきゃいけないってこと。なおかつそこで調査のサポートをしないといけない。労力に対する見返りは少ない。それでもやる意味があるのか、とか。
──自分の命さえ守ればよかったのから、人さまの命を預かって、その人たちのぶんまでリスクや責任を負うことになる。
うん。自分の子どもにだけ教えても、社会全体がよくなるわけじゃないですもんね。そんなこんなで、自分が社会で果すべき役割について考えるようになりました。
目黒川を攻める
これまで世界各地の漁村を見てきて感じたのは、彼らがやってることって、ムラ全体として生き延びるっていうこと。外とつながってなくて、お金を払えば食い物が手に入るという世界ではないので、自分たちの環境をいかに手入れして壊れないようにするかが命題なんですよ。それはべつにロハスでもサスティナブルでも、環境保護の観点でもなくて、自分がそこで生きるためにそうしてる。そんなことが僕のなかで整理されてきて、じゃあ都市はなぜそういうことをしなくなったのかと。──それ、すごく興味があります。
都市は結局、その役割が全部お金に代わっちゃってるんですよね。面倒なことはすべてお金がやってくれる。サル族のなかでもめちゃくちゃ弱い生き物である人間は、協同する脳みそをつくったのが生き延びるための最大の発明だったらしいんですけど、お金のおかげで協同しなくても生きられるようになっちゃった。
──逆にいえば、お金がないと生きられないという現実というか、錯覚というかが生まれてしまった。
うん。そこから現代的な問題点がいろいろ出てきてるんだなってわかってきたわけです。かといってお金をなくすことはできないし、文明は享受して生きざるを得ないんだけども、都市で失ってしまったもの、自分たちで排除してしまった大切なことを取り戻す活動は、しなきゃいけないんじゃないかって思うようになって。
「ちゅらねしあ」は、人間として生きるうえで大切なことを伝えるつもりでずっとやってきてるんですね。食べ物をとったり、育てて食ったり、火を熾したり。でも、それは石垣島のような豊かな環境だからできるんですよってお客さんから言われることが増えてきて。いやいや、むしろ都市でこそやらなきゃいけないことでしょ、と思ったんですよ。
2014年に神奈川の逗子に引っ越したのは、それを実践してみたかったからです。で、まず何をやったかというと、目黒川を攻めたんですね。
──攻めてましたねえ(笑)。
川こそが都市に残された、かけがえのない大切なことを体験できる場所。自然のリスクを実感できつつ、子どもが遊べる場所です。都市のなかに大自然を感じさせる場所をつくってしまえということで、ゴミを拾ったりデッキブラシをかけたりして川をケアしつつ、子どもらと遊ぶ活動を始めました。人が生きるうえでいちばん大切なのは水だから、都市の水の問題点を認識させる目的もありました。だけど、苦情がくるようになってしまって。
──えー、なんで?
自然のリスクがあるところには近寄らないでほしいという話はよくされましたね。それに、目黒川の問題が顕在化されると、地価が下がるって。
──なんだー、お金の話になるのか。がっかり。
自分たちの環境をよくしたいって思うものだと思ってやってるのに、結局そこ?って拍子抜けして。俺なんて逗子から通ってきてゴミ拾いしてるのに、これは消耗していくだけだな、と。
生き残るための知恵の伝授
──それでターゲットを地元の逗子に変更したんですね。
逗子は、自然はいい状態でした。ただ、子どもが日常的に遊べていないようだったから、公園に毎夕、出没して、子どもたちと木登りしたり、火を熾したり、やりたい放題遊ぶことから始めたんです。
──ワイルドに遊びまくってくれる謎のおじさん、現る(笑)。
まさに(笑)。でも、それらはすべて生きるのに大切なことだから。で、ただ危ないことをさせてるわけじゃなくて、一応意図があってやってるらしいってことが、だんだん認知されてきて。
──『情熱大陸』にも出演してたし、ちゃんとした人らしいよ、と。
ああ、そういうのも役に立ったかもね。公園で一緒に遊ぶ仲間がだんだん増えてきたんです。で、地域でもともとそういう活動をしていた人と知り合って、一緒に動いて地域全体でちゃんとした流れをつくりましょうということになって。それでママさんたちを巻き込んで、「そっか」という一般社団法人を立ち上げたんです。
──いまや500人もの人たちが関わっている地縁コミュニティですね。
「ちゅらねしあ」は他ではやってないことを狙っている店で、なくすのは惜しい。考えた末に、石垣に戻ることにしました。
──でも逗子のその活動は、いったらボランティアでしょう。その間、どうやって生計を立ててたんですか?
立ててないです(笑)。逗子に住んでた3年間は、ほぼ無職。でも、街でだってできることや、やるべきことをやろうと思ってやってきたので。食える雑草や海藻のとり方や、魚やカニのとり方、火の熾し方、水源のありかを、遊びながらみんなで学んでいきました。だから逗子でもし電気やガスや水道が1週間止まっても、僕らの子どもたちはきっと生きられますよ。
──八幡さんの行為自体ははじめから変わっていないけど、意味が違ってきている、ということなんですね。
そうなんです。個人的な挑戦を突き詰めていくみたいなところから、もうちょっと社会的な活動にシフトしてきました。自分の肉体的な可能性の探求から、誰でもできることとして共有しないといけないと思って。それがさっき話したムラ全体として生き残るってことで、僕はみんなにその方法を伝える役目なんだなと思うようになったわけです。まあ、「そっか」に関しては、僕がいなくなってからのほうがむしろ加速してうまくまわっていますけど。
──暴れん坊がいなくなったからかなー(笑)。
いま、小学生と中学生のアフタースクール、児童館や自主保育の運営も始まってる。来季からは認可外ですが保育所も始まる予定で。こんなに自分たちでまわせている地域って、国内でもあんまりないんじゃないかな。
──ところで、石垣にはこの先もずっといるつもりでいますか?
あんまり場所にこだわりはないのでわかりませんが、ここは居心地がよくて、仕事は充実してるし、暮らしもとても快適なんですよね。誰かから何か依頼があれば別ですけど、ひとまずはここでゆるゆると暮らしていくんじゃないかな。楽しいって実感をもてる何かを手に入れられるのが、人間が生きるうえでどれほど大事かと思いますけど、それは街でも田舎でもできるってことはわかって、とりあえず自分がやるべきこと、やりたいこと、やれることはやったかなと思っているので。
──そう明言できるのはすごいなあ。
いま、余生みたいなものです(笑)。もはや野望もない。あとは地道に、畑の手入れをしたり、子どもに教えたり。ありがたいことに好きな世界は見られたし、楽しく暮らさせてもらっているので、明日死んでも悔いはないくらいです。
身体=海
「自分の手足を道具にして動かして、自力で生きるってことだから、僕の仕事は体ひとつあればできます。で、人間は塩をとらなければ死んでしまいますけど、その塩は海水からつくりますよね。ってことは、海がなければ生きられない。人間の体における水分は70%、地球における海の割合も70%で、奇跡的に一致している。だから僕の相棒は、身体でもあり、海でもある。海は身体の一部だということもできます。生き物はすべて海から生まれたんだから、生命共通の相棒は海なのかもしれませんね」
『わたしをひらくしごと』
全国の書店にて好評発売中<<連載もくじ はじめに>>
インタビュアー
野村美丘(のむら・みっく)
1974年、東京都出身。明星学園高校、東京造形大学卒業。『スタジオ・ボイス』『流行通信』の広告営業、デザイン関連会社で書籍の編集を経て、現在はフリーランスのインタビュー、執筆、編集業。文化、意匠、食、犬と猫、心と体と精神性、そのルーツなど、人の営みがテーマ。さまざまなことやものや考えがあると知り、選択肢がたくさんあることに気がつくこと。その重なり・広がりが有機的につながっていくことに関心あり。フォトグラファーの夫とphotopicnicを運営している。
編集した本に『暮らしのなかのSDGs』『ヒトゴトにしない社会へ』『モダン・ベトナミーズ(キッチン・鈴木珠美著)』『ホーチミンのおいしい!がとまらない ベトナム食べ歩きガイド』(アノニマ・スタジオ)、『うるしと漫画とワタシ(堀道広著)』(駒草出版)、『マレーシアのおいしい家庭料理(馬来風光美食・エレン著)』(マイナビ)、『定食パスタ(カプスーラ・浜田真起子著)』(雷鳥社)など。
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