タイトルデザイン:峯崎ノリテル ((STUDIO))
アノニマ・スタジオWebサイトTOP > わたしをひらくしごと もくじ >まだまだ続く!わたしをひらくしごと ステンシルアートワーク 赤池完介さん(アーティスト)
「働いて生きること」は、人の数だけ、物語があります。取材でお会いした方、ふだんからお世話になっている方、はたまた、仲のいい友人まで。これまでに出会った、他の誰とも似ていない仕事をしている「自分自身が肩書き」な人たちに、どのようにしてそうなったのか、話を聞きにいきました。
写真:藤田二朗(photopicnic)
マジョリティではなくマイノリティへ、凪ではなく荒波へ
ステンシルアートワーク
赤池完介さん(アーティスト)
これからの自分は、どうなっていくのだろうか?
しょっちゅう迷うし、たくさんもがくけれど
結局いつだって、自分のなかに自分だけの確証をもっている。
赤池完介さんをひらく、しごとの話。
◉ 名前
アーティスト
◉ この仕事を始めたきっかけカスタム教科書
赤池完介(あかいけ・かんすけ)
1974年、京都生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業。デザイン、イラスト、アートの境界をあえて曖昧に、自身の興味と衝動にしたがって制作する。素材を再解釈・再編集・再構成することによって既成概念を打ち破ったり、新たな価値を生み出したりするには、手触り感や偶然性に満ちたステンシルの手法と表情が最強だと考えている。国内外での個展やグループ展、広告やナショナルブランドとのコラボワークなども多数展開。2022年12月3~18日、静岡県三島市のさんしんギャラリー善にて「型紙芸術家の激情 ~赤池完介のステンシルとアート展」(企画・運営:佐野美術館)を開催。
Instagram:kansukeakaike
設計図は必要か?
──いわゆる表現活動は、いつから始めたんですか?小さいころから。絵を描けば上手だねって褒められてた。中学生のとき、教科書に『ビー・バップ・ハイスクール』のキャラクターなんかを落書きするじゃない? それが評判になって、別のクラスの連中が教科書を持ってきて、俺にも描いてくれって。
──へえ!
仕事を受注したのはそれが最初(笑)。がんがんカスタムしていくわけ、教科書を。偉人の顔写真に髭を描き足すみたいなレベルではなくて、表紙から全体をデザインして鉛筆で描き込んでいく。休み時間に教科書持参で頼みにきて、次の休み時間に仕上がりを取りにくるっていう。
──ということは、授業中に仕事するんだね(笑)。たとえば『ビー・バップ』を描いてほしいという大きいお題はあって、あとは自由にやるんですか?
そうそう。グラフィックデザインという仕事があると知って、意識し始めたのはそのころ。だけど美術大学なんてちょっとやれば行けんじゃねえのって思ってたから、なんも気にせず、高校時代は音楽のほう、バンド活動に夢中になってました。
──そうね。私たちは高校のクラスメートですが、当時のかんちゃんは完全にそのイメージでした。
だけどじつは同級生に、桁違いに絵がうまい笛田亜希(吉祥寺駅前にあるゾウのはな子像の原型を制作した美術家)みたいなやつがいたでしょう。これはヤバいと思って、美大に行くなんてことは軽はずみに言わないようにしてた(笑)。
──わかる。私も小さいころから自分は絵が得意だと思っていたけど、高校で上手な人たちを間近で見て、そう思うのをやめたという経緯があります。亜希が私たちに与えている影響は大きいな(笑)。
じゃあでも、密かに美大進学を狙ってはいたわけですね。
そうそう。でも、『東京ラブストーリー』を見て、カンチみたいな部屋に住めるならサラリーマンもいいなと思ったの。あんなおしゃれなマンションに住んで、あんな恋愛ができて、1日のなかでちゃんとオンとオフがあって、めちゃくちゃいいじゃんって。
──いまの生活の方向性と真逆じゃないの。
だからこそ憧れちゃうよねえ。
──でも、サラリーマンの道には進まなかったんですね。
一応、就職活動はしたんだけど。でも、おもしろそうだと直感したほうを、俺はどうしても選択してしまう。いつもマイノリティに惹かれるというか。その場でそういう考えになるから、ほんとに設計図がないというか、漠然としてるんだよね。行き当たりばったりのまま、ずっと続いてきてる感じがする。もっと立ち位置を明確にしたり、方向性を定めたりしたほうがいいのかなあって。
──どうでしょうね。決めることでやりやすくなることもあれば、狭めてしまうこともあるし、その逆もまた然りで。
だから、それで自信もってやっていけばいいんじゃない?って思ったりするときもある。どこかに的を絞って全振りする性格なら、もうしているだろうし。
──名前をつけて仕分けしてみても、その境界ってどこまでも曖昧ですよね。イラストレーターと名乗ったらイラストの世界に身をおくことになるけれど、そう限らないのなら、あえて限定する必要もない。でも、何かしらの肩書きがないと人は不安になるから、どんなことをやっているのか、目安となるひとこと紹介が欲しいっていうのも、わかります。
そうね。だから“アーティスト”っていうのは、楽ちんだともいえる。全部含まれているから。
新しい表現を手に入れて
──ステンシル(紙や布などに抜き型を当ててペイントし、転写する技法)は、いつ見つけた方法だったんですか?大学で、シルクスクリーン(紙や布などに版を当てて刷る、版画の技法)とコラージュをやってて。シルクの工房はほぼ俺ひとりで自由に使ってた。
──なんでシルクとコラージュだったんでしょう。
アンディ・ウォーホルとかジェイミー・リード(セックス・ピストルズのアートワークなどを手がけたグラフィックデザイナー)が好きだったから、大学に入ったら絶対シルクをやろうと思ってた。レコードジャケット然り、ファッション然り、ないものはつくっちゃおうっていうパンクのDIY精神と、あのテイストが好きだったから。
大学を卒業して工房が使えなくなって、シルクの製版は家でもぎりぎりできるから、続けてやってたんだけど。手狭だし、面倒になってきて、そこからスプレーでステンシルをやればいいって思いついたの。シルクスクリーン版はいちいち洗浄しないといけないけど、抜き型を紙でつくったステンシルならその必要がないから。そしたら、ちょっと見たことない表情になって、これはかっこいいぞって。
──同じ転写だけど、アプローチをちょっとアレンジしたんですね。
うん。そこで思いついたのが、手元にある印刷物やなんかを素材にするってこと。たとえば新聞の折り込みチラシから、車や服の写真を切り抜いて貼ったりしたり。それをもとに、コラージュ的にステンシルでつくり始めた。
そのころ予備校時代の恩師が、日本で展示をしていた知り合いの日系ブラジル人を紹介してくれて。ストリートの表現を日本的な要素に落とし込んで絵にしてた俺の作品がブラジルで絶対ウケるからって、グループ展に誘ってくれたの。そのあたりからステンシルというものを意識するようになって、風景写真をモチーフにした作品をつくり始めて。
──それが2009年ですね。大学を卒業してまだ何者でもなかったかんちゃんが、アーティストとしての立ち位置をだんだんつかんでいった時期。
うん。帰国してから“ステンシルアーティスト”と名乗って活動するようになったんです。いろんなところに営業したのも功を奏して、展示やなんかで忙しくなってきたのはいいものの、そうすると今度はネタがなくなってきちゃった。風景写真を自分で撮影しにいかなきゃいけないんだけど、以前旅したメキシコの写真や、グループ展で行ったときのブラジルの写真、自分が住んでる界隈の風景写真も使い倒して、もう写真がないなあって。
そのころは美術予備校の講師の仕事をやってたんだけど、それもやめて、なんにもしてなくて。結婚して子どもができたタイミングだったから、これから制作のインプットのために旅してくるなんて、家族にとても言えなくて。
そんな状況で、もうこれ以上、自分からは何も出ない、と思ってしまった。売れてる人たちの作品と比べて、迷って、悩んで。それでどうにも詰まってしまった。何をしたらいいかわからなくなっちゃった。
──アーティストとしての存在意義ということ以外に、家族を抱える生活者としての責任感に押し潰されそうにもなっていた。
うん。それで、もう全部やーめたって。作品もほとんど捨てちゃったんです。
神さまがいきなりポイッと
──それで、梱包屋さんで働き始めたんですね。そう。輸出する精密機械類を、木枠や板で梱包する仕事。でも、そこでびっくりしたのが、箱をバーッとつくって最後に箱にナンバリングするときに、やっといてって言われて渡されたのが、なんとステンシルのシートとローラーだったという。
──想いを絶ったはずのステンシルに、思いがけず再会してしまった。
初めて見るアメリカ製の専用のローラーで、めちゃくちゃかっこよかった。これは……!と思って、卸しているところをこっそり調べて、こっそり買いにいって(笑)。
──やめたはずなのに。
うん。神さまがいきなりポイッてよこしてきた。アートのことなんて忘れてやってるはずなんだけど、そういう道具を使って作業していると、これこそがステンシルのルーツだって思えるし、アイデアもどんどん出てくるわけ。限られた素朴な色味で箱にナンバリングしていくというシンプルでオリジンなこのやり方は、コンセプトが明確で、バックストーリーもあって、このままでアートとして十分成り立つし、いままでずっと探していたものがここにあるじゃんって。なぜステンシルとか、なぜ風景とか、そこにぶち当たって俺はやめていたから。もう、これだけでいいじゃんって。
──そこでまた制作を始めた?
いや、どうせやっても、みたいな気持ちが拭えなくて、またつくり始めるまでに3年くらいかかってしまった。というのも、俺が働いてた環境が、いちばんアートに興味がないような人たちの集まりだったから。そのときは、一般の人たちとアート業界の人たちは全然違うんだなって思ったの。だって梱包屋のあのおじさんたち、アートなんて絶対買わないじゃん、って。アートなんて金持ちのための贅沢品なんじゃないかって。
──そうだよね。尤もな意見でもある。
「ここでちゃんと職人になったら将来安定だから、家も買えるぞ」って。そのときに、めちゃくちゃ拒否反応が出てしまった。
──なぜ?
他人に自分の人生を決めつけられることに。これは本当、昔からの俺の性質で、こっちがいいよって人から言われた瞬間に、パッとよそ向いちゃう。みんながこっちを受験するなら俺は美大だ、みんながサラリーマンになるなら俺はならない、みたいな。で、梱包屋をやめちゃった。
──天邪鬼ですねえ。
だけど、先のことは何も決まってない。それでとりあえず移住して、自由な生活をしてみようと思いついたんです。というのも、家族が体調を崩したのをきっかけに、我が家はちょっと前からオーガニックな食生活になっていて、そっち系の情報がいろいろ集まってきていて。自分で酵母をおこしてパンをつくったりもしていたから、そういうのでイケんじゃないか?と。
──思いきり環境を変えてみようと。
うん。仕事もやめてしまった俺としては、家族が納得する理由も必要だった。
──逆にいうと、それくらいしか考えずに移住したんだ?
(笑)そうそう。
純粋な表現欲が育まれ
──それで2015年、横浜から南伊豆へ家族で移り住んだんですね。パンをつくっていたのは、趣味で?趣味で。オーガニックな食についていろいろ見聞きしているときに、天然酵母っていうものがあって、それでパンができるって知って、単純に興味が湧いてやってみたんだよね。そしたらプシュー!って酵母が発酵して、それでパンをつくったら、めちゃくちゃうまくて、びっくりして。
──それまで、食べ物をつくることについては……。
まったく興味なかった。だから純粋に発酵への興味と、パンをこねるのが粘土細工みたいで楽しいのと、あとは、つくったものが食べたら全部なくなるっていう気持ちよさ。興味深々で作業して、その結果できたものを体内に取り込んで、という自分の行為が無駄なく全部つながっていることにすごく満足できた。そこに、つくること、食べること、生きることが全部が入っているということに。
で、腐ることにも意味があって。だから、防腐剤とかで人工的に腐らせないようにするなんていうのはおかしな話で。そんなことから、究極のパンってなんだろう、酵母と塩だけのとびきりうまいパンをつくりたいなって追求するようになった。
それで菓子製造許可を取って、イベントや道の駅でも販売するようになって、調子よくやってたんだ。だけど、そうしたら、俺のパンが売れるのに比例して、俺の興味がどんどん薄れていってしまった(笑)。
──悪い癖がまた出たのね(笑)。
不特定多数に渡っていくことの、おもしろくなさ。とにかく、つまんなくなっちゃった。
──お客さんの顔が見えなくなってしまったということ?
うん、というか、あるとき道の駅でパンを陳列してたら、「このパン、固えんだよな」っておじいさんが言ってて(笑)。「どんなパンなの? あ、ハードパン? ダメダメ!」とかさ。そういう声を聞いちゃうと、こっちもそれを気にしなきゃいけないかなって思っちゃうじゃん。
不特定多数の人に渡るってことは、どこで何を言われてるかわからないんだなって。俺のいないところで、あのパンはまずいとか言われてたら本当、ショックじゃん。きっとそうなっていくなあって予想して、それで、やめたの。
──!? 予想してやめた(笑)!
知れ渡ることによるストレスってあるなあって。純粋なつくる楽しみから、ぶれていっちゃうというか。ほんとにつまんなくなっちゃったんだよね。自分で食う分だけつくればいいやって。
──やめたとて、生計は?
パンをつくってたのは週末だけだし、売り上げは微々たるもので、普段はバイトしてたんだよ。ふりかけをつくる工場とか、いちご農家の手伝いとか。あとは本業の制作の依頼もときどきあったから。
──ステンシルの道具はこっそり購入していたけれど、普段は制作はしていなかった?
してない、パン以外は。でも、南伊豆で暮らして2年くらい経ったころ、どんどんつくりたくなってきたの。俺が過去に何をやって、どう挫折したのか、まわりにそれを知ってる人が誰もいない環境で、毎日海に行って、サーフィンしたりして、自由に過ごしてたのね。なんのストレスもなく、海できれいだななんて感じてると、この美しさを表現したいって自然に思うようになって。売れるかどうかにこだわらず、自分の好きなものをつくればいいんだっていう思考になれた。自由につくろうと思えたら、楽しくなってきたんだね。気持ちが切り替わって、いまだったらまたできるかもと思って。それで、パンもやめたんです。いちご農家の手伝い以外のバイトもやめた。
──ふりかけをやめて、いちごを残した(笑)。いい状態になったところで、2021年に南伊豆から引っ越したのは、なぜだったんでしょう?
家族のやりたいことができない環境だったから、それらを解消するために。
──あら。楽しくやってたんじゃなかったんだ?
そのはずだったんだけど、楽しいのはどうも俺だけだったみたい(笑)。まあ、子どものやりたいことをやらせてあげたいしというので、南伊豆を離れて、もう少し都会に出ることに。それでいまの、湘南の端っこの住まいになりました。
見つけてしまった使命感
──かんちゃんのなかには碇のようにして、制作があるんですね。途中で離れたりもしているけれど、結局そこに戻ってくるというか。そうだね。ありがたい。
──その気持ちは、何に対して?
好きなことができていることと、声をかけてくれる人がいることに。つくづくそう思う。
──なぜ制作することが好きなんでしょう。
ねえ。DIYの精神に近い気はしてる。一般的にいいとされているものより、自分でかっこいいと思うものを探し出してつくり出すことに興味があって。そういう思いをもった人と出会いたい気持ちもあるのかも。
──共有したいってこと?
「それ、めっちゃわかりますよ」とか言ってほしいのかも。
──でも、それが不特定多数になると嫌なんだもんね(笑)?
──世界をステンシルというフィルターにかける。
それがデカい社会問題でも、自分の些細なプライベートのことでもね。ミュージシャンが曲をつくるように、ステンシルで表現することはひとつ、見つけてしまった自分の使命感かな。売れるかどうかではなくて、自分のなかのもやもやしたものを昇華する、動物的な行為として制作すればいいんだ、商品になるかどうかはそのあとに考えればいいんだって感覚になれたから。うん、いま、めちゃくちゃやりやすくなってきたところ。
好奇心
「存在しないものを新しくつくる。あるいは、ルールとか、既成概念とか、すでに存在しているけれども、それをぶち壊す。多くの人がこうはしないでしょう、それはやらないでしょう、ということを、やる。そうすることで、人がハッとしたり、共感してくれたりするといいなと思ってる。ただしそれがあんまり不特定多数の人が相手だと、そっぽ向いちゃうけども(笑)」
『わたしをひらくしごと』
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インタビュアー
野村美丘(のむら・みっく)
1974年、東京都出身。明星学園高校、東京造形大学卒業。『スタジオ・ボイス』『流行通信』の広告営業、デザイン関連会社で書籍の編集を経て、現在はフリーランスのインタビュー、執筆、編集業。文化、意匠、食、犬と猫、心と体と精神性、そのルーツなど、人の営みがテーマ。さまざまなことやものや考えがあると知り、選択肢がたくさんあることに気がつくこと。その重なり・広がりが有機的につながっていくことに関心あり。フォトグラファーの夫とphotopicnicを運営している。
編集した本に『暮らしのなかのSDGs』『ヒトゴトにしない社会へ』『モダン・ベトナミーズ(キッチン・鈴木珠美著)』『ホーチミンのおいしい!がとまらない ベトナム食べ歩きガイド』(アノニマ・スタジオ)、『うるしと漫画とワタシ(堀道広著)』(駒草出版)、『マレーシアのおいしい家庭料理(馬来風光美食・エレン著)』(マイナビ)、『定食パスタ(カプスーラ・浜田真起子著)』(雷鳥社)など。
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