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第7話 記憶を解放する
馬とのコミュニケーションの基本となる調馬索。初回は動いてもらうことも難しかったけれど、少しずつ歩いてくれるようになり、今日は3回目のトライ。朝から放牧エリアで過ごしていた道産子のオーロラを馬場へ連れてくるところから始めることになった。私は、深く息を吸い込み、心の状態を整えてから馬の群れに近づいていく。
オーロラは雪を掘り下げてつくった柵の奥でじっとしている。そこにたどり着くには2頭の馬を経由しなければならない。しっかりとした足取りで近づき、オーロラの鼻先にたどり着いた。ロープをかけ、放牧エリアの出口に向かって、大股で歩き始めるとオーロラが後ろからついてきてくれた。蹄洗場にロープをつなぐ。ブラッシングをしてから、乗せてもらうための鞍や手綱などの道具を乗せる「馬装」を行う。そして、馬場の中央へオーロラとともに向かった。
横で見ていたズミさんは「自由にどうぞ」と一言。私は心の中でオーロラとの応答を楽しもう、よく観察しようと考えていた。オーロラの鼻先を左手で押して進行方向へ力を加える。するとオーロラは、斜め前方に脚を動かした。同時に私はオーロラの後ろ足へと視線を向ける。馬の推進力は後ろ脚が決め、方向は鼻の向きで決まるのだ。ズミさんによると、馬は350度見えていて、且つ相手の細かな動き、私たちが意識してないこと(人は何かを思うと瞬時のその反応が身体に現れている)まで情報として受け取っている。だから、こちらが明確な意思を持っていればそれだけで馬には十分に伝わるのだと言う。私は後ろ脚から目線を離さないように注意しながら、もっと元気にオーロラが並足で歩くイメージを思い描いていた。リズムを伴うイメージなので、自然と手元がリズムをとっている感じになる。しかし、オーロラはのろのろした並足しか繰り出さない。私のイメージには近づかないまま「早足」を伝えることにする。「チッチ」と舌を弾いて音を出し、早足の指示を伝えるが、オーロラは並足のまま。身体全体に強い意思をみなぎらせるように力を込めて「早足!」と声をあげる。すると、走り始めたオーロラ。オーロラがスピードを緩めようとするサインを読み取ろうと観察する。緩めようとしているのを感じると「チッチ」とまた合図を出す、または右手を少し上に動かす。すると、またスピードを速め、走り続けてくれる。真剣勝負である。その後も並足から早足へ、そして早足から並足へ、というコミュニケーションを繰り返していると、ズミさんが馬場の中へ入ってきた。
「次に、フェーズを意識しましょう。一段階目は強く思うだけ、二段階目は舌で音を出す、三段階目は腕を動かして合図する、四段階目は鞭を手にもつ、といった感じで馬への合図に段階をつけていくことをフェーズと呼んでいます。順番に合図することによって、馬が人間のコミュニケーションパターンを覚えて、次第にこちらの指示を捉えて動いてくれるようになっていきます。」
「フェーズ」のデモンストレーションをしようとしたズミさんが地面に置かれていた鞭を右手で取り上げようとしたその瞬間、オーロラが「ブルル」と鼻と口を鳴らし、大きく前足を浮かせる動作をした。ズミさんは微動だにせず、手にとった鞭の先でオーロラの腿付近を撫ではじめた。「オーロラは鞭で叩かれたことがあって、恐れの感情から今の動作をしたんです。こうやって、鞭で撫でることによって、この道具が怖くないことを伝えます。オーロラには、鞭=怖いと記憶されているんだけど、鞭は本来単なる道具でしかない。だから、鞭を誰かが意思をもって使った瞬間に、意味が出てくるようにしなければならなくて、鞭そのものに反応している状態は解いていかなければならないんです。つまり、オーロラが記憶しているパターンを解放する。そうした過去の記憶の消化も『調教』と言う言葉に含まれているんです」
ズミさんの言葉を聴きながら、私の心はいま自分が仕事の中で感じている壁に向かっていた。プレーヤーからマネージャーへの役割の変化に追いつけず、自分のやり方を見つけられないでいた。保育園での勤務経験もなく身近に参照できるロールモデルもいないのに、こうありたいと願う「園長」という記号を追いかけていた。よく考えてみれば、一年未満の準備期間で立ち上げて、一定のクオリティを保って運営できているだけでも上等かもしれない。でも、当時の私はそう思えなかった。オーロラと同じように、ただの状況やモノを恐れと結びつけ記号化しているのは私も同じだ。記号を恐れることで、自らの行動を抑制し、選択肢を狭めてしまうことが起きていないだろうか。オーロラにとってのズミさんのように、恐れを解いてくれる存在がいてくれたらどんなにいいだろう。
そんなことを考えながら調馬索にもう一度試してみるが、オーロラとの意思疎通はいまいちのまま。そんな様子を見かねたのか、8歳の長男が「ぼく、やってみようかな」と調馬策にトライすることになった。
長男の調馬策は終始穏やかに、ほとんど大きな動きも音もたてず進行した。最後にオーロラの並足を止める時、彼は静かに、全く迷いない足取りで馬場の柵の方向へ後ずさりながらオーロラの行く手を遮り、もう終わろうと合図を出した。まるで馬の言葉を話しているように見えた。
オーロラは雪を掘り下げてつくった柵の奥でじっとしている。そこにたどり着くには2頭の馬を経由しなければならない。しっかりとした足取りで近づき、オーロラの鼻先にたどり着いた。ロープをかけ、放牧エリアの出口に向かって、大股で歩き始めるとオーロラが後ろからついてきてくれた。蹄洗場にロープをつなぐ。ブラッシングをしてから、乗せてもらうための鞍や手綱などの道具を乗せる「馬装」を行う。そして、馬場の中央へオーロラとともに向かった。
横で見ていたズミさんは「自由にどうぞ」と一言。私は心の中でオーロラとの応答を楽しもう、よく観察しようと考えていた。オーロラの鼻先を左手で押して進行方向へ力を加える。するとオーロラは、斜め前方に脚を動かした。同時に私はオーロラの後ろ足へと視線を向ける。馬の推進力は後ろ脚が決め、方向は鼻の向きで決まるのだ。ズミさんによると、馬は350度見えていて、且つ相手の細かな動き、私たちが意識してないこと(人は何かを思うと瞬時のその反応が身体に現れている)まで情報として受け取っている。だから、こちらが明確な意思を持っていればそれだけで馬には十分に伝わるのだと言う。私は後ろ脚から目線を離さないように注意しながら、もっと元気にオーロラが並足で歩くイメージを思い描いていた。リズムを伴うイメージなので、自然と手元がリズムをとっている感じになる。しかし、オーロラはのろのろした並足しか繰り出さない。私のイメージには近づかないまま「早足」を伝えることにする。「チッチ」と舌を弾いて音を出し、早足の指示を伝えるが、オーロラは並足のまま。身体全体に強い意思をみなぎらせるように力を込めて「早足!」と声をあげる。すると、走り始めたオーロラ。オーロラがスピードを緩めようとするサインを読み取ろうと観察する。緩めようとしているのを感じると「チッチ」とまた合図を出す、または右手を少し上に動かす。すると、またスピードを速め、走り続けてくれる。真剣勝負である。その後も並足から早足へ、そして早足から並足へ、というコミュニケーションを繰り返していると、ズミさんが馬場の中へ入ってきた。
「次に、フェーズを意識しましょう。一段階目は強く思うだけ、二段階目は舌で音を出す、三段階目は腕を動かして合図する、四段階目は鞭を手にもつ、といった感じで馬への合図に段階をつけていくことをフェーズと呼んでいます。順番に合図することによって、馬が人間のコミュニケーションパターンを覚えて、次第にこちらの指示を捉えて動いてくれるようになっていきます。」
「フェーズ」のデモンストレーションをしようとしたズミさんが地面に置かれていた鞭を右手で取り上げようとしたその瞬間、オーロラが「ブルル」と鼻と口を鳴らし、大きく前足を浮かせる動作をした。ズミさんは微動だにせず、手にとった鞭の先でオーロラの腿付近を撫ではじめた。「オーロラは鞭で叩かれたことがあって、恐れの感情から今の動作をしたんです。こうやって、鞭で撫でることによって、この道具が怖くないことを伝えます。オーロラには、鞭=怖いと記憶されているんだけど、鞭は本来単なる道具でしかない。だから、鞭を誰かが意思をもって使った瞬間に、意味が出てくるようにしなければならなくて、鞭そのものに反応している状態は解いていかなければならないんです。つまり、オーロラが記憶しているパターンを解放する。そうした過去の記憶の消化も『調教』と言う言葉に含まれているんです」
ズミさんの言葉を聴きながら、私の心はいま自分が仕事の中で感じている壁に向かっていた。プレーヤーからマネージャーへの役割の変化に追いつけず、自分のやり方を見つけられないでいた。保育園での勤務経験もなく身近に参照できるロールモデルもいないのに、こうありたいと願う「園長」という記号を追いかけていた。よく考えてみれば、一年未満の準備期間で立ち上げて、一定のクオリティを保って運営できているだけでも上等かもしれない。でも、当時の私はそう思えなかった。オーロラと同じように、ただの状況やモノを恐れと結びつけ記号化しているのは私も同じだ。記号を恐れることで、自らの行動を抑制し、選択肢を狭めてしまうことが起きていないだろうか。オーロラにとってのズミさんのように、恐れを解いてくれる存在がいてくれたらどんなにいいだろう。
そんなことを考えながら調馬索にもう一度試してみるが、オーロラとの意思疎通はいまいちのまま。そんな様子を見かねたのか、8歳の長男が「ぼく、やってみようかな」と調馬策にトライすることになった。
長男の調馬策は終始穏やかに、ほとんど大きな動きも音もたてず進行した。最後にオーロラの並足を止める時、彼は静かに、全く迷いない足取りで馬場の柵の方向へ後ずさりながらオーロラの行く手を遮り、もう終わろうと合図を出した。まるで馬の言葉を話しているように見えた。
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遠藤 綾(Aya Endo)
軽井沢風越学園 職員/ライター/編集者。
2005~07年九州大学USI子どもプロジェクトで子どもの居場所づくりの研究に携わる。2008年から主に子ども領域で書く仕事、つくる仕事に携わりながら、インタビューサイト「こどものカタチ」を運営。2013~16年 NPO法人「SOS子どもの村JAPAN」で家族と暮らせない子どものための仕事に携わる。2016年に山形県鶴岡市に移住し、2016年~2021年「やまのこ保育園home」、2018年「やまのこ保育園」の立ち上げと運営に携わる。2021年春に軽井沢へ拠点を移し、現職。
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