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第10話 新しい扉(最終回)
わたしはいま、長野県軽井沢町にある軽井沢風越学園という3歳から15歳までが通う学校で働いている。2021年春に自分の子どものように育ててきた保育園を離れ、家族ごと新たな場所で再スタートすることを選択したのだ。
新しい場所で働き始めてしばらくのあいだ「ここはどこ?」と思うことがよくあった。身体と現実が時差を生んでいて、声を出しても、手を動かしても、リアルタイムで感じられない。他にも不調がたくさん身体に出てしまって、ずっとプールの底にいるみたいな気分。そんな状態になってしまったのも無理ないほど、この選択はわたしの人生にとって大きなトランジションであり挫折でもあったのだと思う。
毎朝、森の中を歩いて校舎へと向かう道々、野鳥のさえずりが不規則に、絶えることなく降り注いでくる。その音の響きに意識を向けながら歩く時間は、さながら瞑想のようで、毎日繰り返していると次第に心が落ち着いていくのを感じた。そして、山形では学校にほとんど通えなくなっていた息子が新しい学校ではごきげんだったことと、新一年生になった娘も愉しく過ごせていたことが何よりの薬だった。森と野鳥、そして家族の力を借りて、夏休みを迎える頃には徐々に感覚の時差が解消され、自分自身を取り戻していった。
息子が小学校に行かないと言い出したのは、2019年の夏頃、3年生の時からだった。その理由としてわたしが息子から受け取っていたのは、学校という場所から感じていた閉塞感だった。友達とのトラブルでも、先生との間に何かあったわけでもない。ただ、どうしても行く気になれない、行こうとすると身体に反応が出てしまう日が続いた。最初のうちは、本人がとても辛そうだという事実を受けとめることを大切にしていたけれど、その状況は波はあれどおさまる気配はなく、日々が過ぎていった。夫はひたすら息子を受容していた一方、わたしは登校できないことを心配して電話をくれる先生の気持ちにも共感しながら、これから息子はどうなっていくのだろうと不安を募らせていた。住んでいた街には、オルタナティブな居場所はなく、学校に行けないことに対して何か後ろめたくなるような、そんな感覚がセットになっていた。自分自身の不安から、息子を学校へ向かわせようとしたり、本人を傷つけるような言葉を発してしまうことがあったわたしに、ある日夫はこんな言葉を投げかけた。「子どもは何も間違ったことは言ってないし、自分の頭で考えてるから大丈夫。もう僕たち親にできることはそんなにないってことをよく理解する必要があると思う」悔しいくらいその通りだった。
そんなある日、理想とする学校の時間割と図面を描いて見せてくれたことがあった。スケッチブックには、校舎の図面と説明書きが書き込まれていた。丸いかたちの部屋がいくつもつながってできている校舎は、木工や工作ができる部屋が大きくとられていて、校舎のあちこちに本がたくさんある。森に囲まれていて、校舎のすぐ近くに馬や山羊、鶏が歩きまわっている。子どもはどこで遊んでも学んでもいい。学校のさまざまなことを子どもたちが決めることができて、先生は困ったときに助けてくれるだけでいいから人数は少なくていい。時間割も子どもが決める。当時9歳だった息子が描いていたのは、そんな学校だった。
そして、コロナウィルスがやってきて仕事でもプライベートでもいろんなことが起きた2020年。その年の秋に4年生になっていた息子と風越学園をはじめて訪れた時「僕、この学校に通いたい」とつぶやいた。息子のスケッチブックに描かれた学校にどこか似ているこの場所に、運よく通えることになり、わたしも夫も共に風越学園で働くことが決まった。軽井沢の物件はなかなか見つからないと聞いていたけれど、手ごろな住まいも見つかって、何もかもがリズムよく決まっていった。
山形でのわたしたち家族の大切な居場所だった「カムロファーム」も、少しずつかたちを変えていった。障がいのある子や発達に特性のある子のための福祉サービスである「放課後等デイサービス」を事業の主軸にすることになり、福祉サービスの利用者以外の人が乗馬できる枠組みはなくなってしまった。6歳から通い続けている息子のためにとカムロファームの皆さんはできるだけ方策を尽くしてくださったけれど、子どもからすると理解が難しい変化に戸惑う姿もあった。運営のためのその枠組みが変わってしまえば、場も変化する。大好きな場所が変わっていくのを目の当たりにするのは寂しいことだけど、それ以上にカムロファームに出会えたことと、2016年から5年間、馬との暮らしの一端を経験できたことは、わたしたち家族にとってかけがえのない時間だった。
コロナ元年の2019年から仕事でも家庭でもいろんなことが立て続けに起きて、ずっとゆらゆら揺れ続けていたように思う。そんな二年間の中で苦しみもがきながら選択した先に、いまのわたしたちがいる。軽井沢への移住からもうすぐ二年が経とうとしている2023年のいま、6年生の息子は夏休みに大分にある、よりたかつひこさんの牧場に一ヶ月泊まり込んでどっぷり馬との暮らしに浸り、学校では木工にはまっている。娘はつくったり描いたりすることが大好きなままのびのび育っている。わたしはというと、毎日3歳から6歳の子どもたちと森の中を探険したり、畑を耕したりしている。雨の日も雪の日もずっと野外で過ごすので身体はヘトヘトだけど、とにかくよく笑うようになった。マネジメントから、保育が主な仕事になって、はじめはおもしろいくらいできないことだらけだったけれど、最近やっと少しだけ保育の視力があがってきたような気がしている。
先日、家族で食卓を囲んでいると急に娘が「おかあさん、家族みんなでここに来た理由がわたし、わかったよ」と少し背伸びするように言った。そして、みんなの視線が集まるとすぐに「楽しいからだよ!」と誇らしげに続けた。どんな未来が待っているかわからないけど、きっとよりよいものをつくり出すことができるという信頼を持ち続けられることが、わたしの切実な願いであり、いまそれを感じられている幸せを思う。毎週末、馬に学んだ日々は終わりを迎えたけれど、時がくればきっと再会することができるだろう。新たな場所で3歳から15歳までの子どもたちと遊び、学ぶ中で生まれる物語をこれからも追いかけていきたい。
新しい場所で働き始めてしばらくのあいだ「ここはどこ?」と思うことがよくあった。身体と現実が時差を生んでいて、声を出しても、手を動かしても、リアルタイムで感じられない。他にも不調がたくさん身体に出てしまって、ずっとプールの底にいるみたいな気分。そんな状態になってしまったのも無理ないほど、この選択はわたしの人生にとって大きなトランジションであり挫折でもあったのだと思う。
毎朝、森の中を歩いて校舎へと向かう道々、野鳥のさえずりが不規則に、絶えることなく降り注いでくる。その音の響きに意識を向けながら歩く時間は、さながら瞑想のようで、毎日繰り返していると次第に心が落ち着いていくのを感じた。そして、山形では学校にほとんど通えなくなっていた息子が新しい学校ではごきげんだったことと、新一年生になった娘も愉しく過ごせていたことが何よりの薬だった。森と野鳥、そして家族の力を借りて、夏休みを迎える頃には徐々に感覚の時差が解消され、自分自身を取り戻していった。
息子が小学校に行かないと言い出したのは、2019年の夏頃、3年生の時からだった。その理由としてわたしが息子から受け取っていたのは、学校という場所から感じていた閉塞感だった。友達とのトラブルでも、先生との間に何かあったわけでもない。ただ、どうしても行く気になれない、行こうとすると身体に反応が出てしまう日が続いた。最初のうちは、本人がとても辛そうだという事実を受けとめることを大切にしていたけれど、その状況は波はあれどおさまる気配はなく、日々が過ぎていった。夫はひたすら息子を受容していた一方、わたしは登校できないことを心配して電話をくれる先生の気持ちにも共感しながら、これから息子はどうなっていくのだろうと不安を募らせていた。住んでいた街には、オルタナティブな居場所はなく、学校に行けないことに対して何か後ろめたくなるような、そんな感覚がセットになっていた。自分自身の不安から、息子を学校へ向かわせようとしたり、本人を傷つけるような言葉を発してしまうことがあったわたしに、ある日夫はこんな言葉を投げかけた。「子どもは何も間違ったことは言ってないし、自分の頭で考えてるから大丈夫。もう僕たち親にできることはそんなにないってことをよく理解する必要があると思う」悔しいくらいその通りだった。
そんなある日、理想とする学校の時間割と図面を描いて見せてくれたことがあった。スケッチブックには、校舎の図面と説明書きが書き込まれていた。丸いかたちの部屋がいくつもつながってできている校舎は、木工や工作ができる部屋が大きくとられていて、校舎のあちこちに本がたくさんある。森に囲まれていて、校舎のすぐ近くに馬や山羊、鶏が歩きまわっている。子どもはどこで遊んでも学んでもいい。学校のさまざまなことを子どもたちが決めることができて、先生は困ったときに助けてくれるだけでいいから人数は少なくていい。時間割も子どもが決める。当時9歳だった息子が描いていたのは、そんな学校だった。
そして、コロナウィルスがやってきて仕事でもプライベートでもいろんなことが起きた2020年。その年の秋に4年生になっていた息子と風越学園をはじめて訪れた時「僕、この学校に通いたい」とつぶやいた。息子のスケッチブックに描かれた学校にどこか似ているこの場所に、運よく通えることになり、わたしも夫も共に風越学園で働くことが決まった。軽井沢の物件はなかなか見つからないと聞いていたけれど、手ごろな住まいも見つかって、何もかもがリズムよく決まっていった。
山形でのわたしたち家族の大切な居場所だった「カムロファーム」も、少しずつかたちを変えていった。障がいのある子や発達に特性のある子のための福祉サービスである「放課後等デイサービス」を事業の主軸にすることになり、福祉サービスの利用者以外の人が乗馬できる枠組みはなくなってしまった。6歳から通い続けている息子のためにとカムロファームの皆さんはできるだけ方策を尽くしてくださったけれど、子どもからすると理解が難しい変化に戸惑う姿もあった。運営のためのその枠組みが変わってしまえば、場も変化する。大好きな場所が変わっていくのを目の当たりにするのは寂しいことだけど、それ以上にカムロファームに出会えたことと、2016年から5年間、馬との暮らしの一端を経験できたことは、わたしたち家族にとってかけがえのない時間だった。
コロナ元年の2019年から仕事でも家庭でもいろんなことが立て続けに起きて、ずっとゆらゆら揺れ続けていたように思う。そんな二年間の中で苦しみもがきながら選択した先に、いまのわたしたちがいる。軽井沢への移住からもうすぐ二年が経とうとしている2023年のいま、6年生の息子は夏休みに大分にある、よりたかつひこさんの牧場に一ヶ月泊まり込んでどっぷり馬との暮らしに浸り、学校では木工にはまっている。娘はつくったり描いたりすることが大好きなままのびのび育っている。わたしはというと、毎日3歳から6歳の子どもたちと森の中を探険したり、畑を耕したりしている。雨の日も雪の日もずっと野外で過ごすので身体はヘトヘトだけど、とにかくよく笑うようになった。マネジメントから、保育が主な仕事になって、はじめはおもしろいくらいできないことだらけだったけれど、最近やっと少しだけ保育の視力があがってきたような気がしている。
先日、家族で食卓を囲んでいると急に娘が「おかあさん、家族みんなでここに来た理由がわたし、わかったよ」と少し背伸びするように言った。そして、みんなの視線が集まるとすぐに「楽しいからだよ!」と誇らしげに続けた。どんな未来が待っているかわからないけど、きっとよりよいものをつくり出すことができるという信頼を持ち続けられることが、わたしの切実な願いであり、いまそれを感じられている幸せを思う。毎週末、馬に学んだ日々は終わりを迎えたけれど、時がくればきっと再会することができるだろう。新たな場所で3歳から15歳までの子どもたちと遊び、学ぶ中で生まれる物語をこれからも追いかけていきたい。
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遠藤 綾(Aya Endo)
軽井沢風越学園 職員/ライター/編集者。
2005~07年九州大学USI子どもプロジェクトで子どもの居場所づくりの研究に携わる。2008年から主に子ども領域で書く仕事、つくる仕事に携わりながら、インタビューサイト「こどものカタチ」を運営。2013~16年 NPO法人「SOS子どもの村JAPAN」で家族と暮らせない子どものための仕事に携わる。2016年に山形県鶴岡市に移住し、2016年~2021年「やまのこ保育園home」、2018年「やまのこ保育園」の立ち上げと運営に携わる。2021年春に軽井沢へ拠点を移し、現職。
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