デザイン:五十嵐 傑(pieni) イラスト:ペカ
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日常の生活から離れ、小さな旅をしたくなったら、私は福祉施設を訪ねます。
障がいのある人や、ひきこもって社会との接点がなくなった人、家族と暮らせない人などが通う所です。
「なぜ、そこに行くの?」と訊かれたら、お手伝いできる仕事があるかもしれない、ということを口実に、単純に、好きだから、行きたくなる、と答えます。
各地の施設を訪ねるようになって十数年、その数は300箇所くらいになります。
地域ならではの手仕事を、福祉施設と一緒にやっている方たちともお会いしました。
これまでに出会った、私が心惹かれた場や取り組みをご案内させてください。
福祉という切り口から見た、もうひとつの日本の風景。
ここで一緒に小さな旅をして、新しく出会う景色に思いを寄せていただけたら、嬉しく思います。
障がいのある人や、ひきこもって社会との接点がなくなった人、家族と暮らせない人などが通う所です。
「なぜ、そこに行くの?」と訊かれたら、お手伝いできる仕事があるかもしれない、ということを口実に、単純に、好きだから、行きたくなる、と答えます。
各地の施設を訪ねるようになって十数年、その数は300箇所くらいになります。
地域ならではの手仕事を、福祉施設と一緒にやっている方たちともお会いしました。
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福祉という切り口から見た、もうひとつの日本の風景。
ここで一緒に小さな旅をして、新しく出会う景色に思いを寄せていただけたら、嬉しく思います。
オリーブの樹100万本のソーシャルファームを未来につなげる
04 埼玉福興株式会社
(埼玉県熊谷市)
北イタリア発祥のソーシャルファームを目指して
JR熊谷駅から北に向かってバスで揺られること約20分。この辺り一帯には、首都圏の水源となる利根川沿いの平地が広がっている。周囲に山がないので空も大きく見える。住宅が点在する畑の中を通って到着。そこには高さ3メートルほどの若いオリーブの樹々たちが、柔らかな陽ざしを浴びて並んでいた。
「ようこそ、ここが僕たちのオリーブ畑です」と、埼玉福興グループの代表である新井利昌さんが迎えてくださった。その後ろでは、農作業姿で黙々と枝葉を集める小柄な男性3人が、そのままの姿勢でこちらに頭を下げる。
「僕らは、ここから日本中にオリーブを100万本植えていこうって計画しています。オリーブの樹はヨーロッパで数百年から数千年も生き続けているので、ここで働く障がいのある人たちが高齢になっても、ずっとオリーブの実を採ったり、葉っぱをお茶にしたり、木の手入れの仕事があるわけで、オリーブの樹がこれから先の世代にも、“ソーシャルファーム”のシンボルになってくれると思うんです」と新井さんは言う。
新井さんが目指すのは、「ソーシャルファーム」と呼ばれる、様々な理由で就労困難な人たちが地域の中で働きながら、最期まで居場所となる社会的企業にすることだ。
ソーシャルファームの発祥は、1970年代に北イタリアのトリエステという街で始まった精神科病院撤廃の運動にある。退院後に街で生活をしながら回復を目指そうとする人たちの就職先が見つからず、元患者とソーシャルワーカーたちが一緒になって働く場「社会的協同組合(Social Cooperative)」をつくり、その後、ヨーロッパに広がっていった。
埼玉福興の農園や作業場、休憩するグリーンケアのスペースに立てられた看板などのデザインは、イタリアのソーシャルファームで働くクリエイターたちに倣い、メンバーが描いた絵と文字を使って、軽やかでセンスのよい空間になっている。
初めてソーシャルファームについて知った時、私自身「日本でも、これを目指せば良いのでは?」と、福祉の明るい未来が見えた気がした。日本の制度では、障がいのある人が働く選択肢は、福祉施設に通う工賃作業の「福祉的就労」か、一般企業での「障害者雇用」かの二者択一。しかも「障害者手帳を持つ人」が対象で、生きにくさを抱える人たち全般に当てはまるわけではない。ソーシャルファームは、制度からこぼれ落ちてしまう、あらゆる就労困難な人を一定の割合以上受け入れる、第三の雇用の場「ソーシャルエンタープライズ(社会的企業)」とも呼ばれている。
また、働く人たち全員が出資して組合員となる「社会的協同組合」は、雇用する側とされる側の上下関係がなく、全員が対等な立場で意見を出し合いながら、主体的に働く場づくりができる。
2020年12月にようやく日本でも「労働者協同組合法」が成立、2022年10月より施行される。そのことによって、協同組合は地域で働く組織として身近な選択肢の一つとなるだろう。また、2019年12月、日本で初めて東京都で「ソーシャルファーム条例」が成立し、2021年から「東京都認証ソーシャルファーム」の事業が始まっている。少しずつだが柔軟に、幅広い就労困難者を対象とした働く場づくりの動きは始まっている。
国際コンテスト金賞受賞も一通過点
「日本にはまだ本当の意味でソーシャルファームと呼べる所ってないと思うんですよ。日本の障害者総合支援法の中で枠にはめてしまうと、ヨーロッパのような社会的事業にならないので、いろんな方法を駆使しながら、当事者本人がどうすればステップアップできるか、工夫していかないとできません」と言うように、新井さんは地域や企業と連帯しながら、複数の組織と福祉サービスの枠組みを使い分けている。一つは就労困難な人たちが農業で働く支援をする埼玉福興株式会社。また、24時間生活を共にする集団生活寮の「年代寮」と、就労継続支援B型事業所(※第2回目の本文を参照)「オリーブファーム」を運営するNPO法人グループファーム。そして群馬県では、働く人たちの住居となるグループホームと農園をNPO法人アグリファームジャパンで運営している。
私が新井さんを知ったのは、2014年頃、「ソーシャルファーム」でネット検索をして「埼玉福興」「オリーブオイル」「コンテスト受賞」がヒットしたからだ。ソーシャルファームを目指す現場で、どのようにして良質なオリーブができるようになったのか、しかも香川県・小豆島ではなく埼玉県で。ウェブに綴られた新井さんの熱いメッセージから、そのことを知りたくて連絡を取らせてもらった。埼玉福興では、「OLIVE JAPAN国際オリーブオイルコンテスト」で2014年に銀賞、2016年には金賞を受賞している。
新井さんには、日比谷公園(東京都千代田区)で開催された「土と平和の祭典」というイベントへの出展と、ソーシャルファームについてのゲストスピーカーをお願いした。その後、現地を訪れてみてわかったのは、新井さんたちにとって金賞受賞は一通過点に過ぎないということ。コンテストで受賞できれば、オリーブの品質や搾油技術が認められて励みとなり活動の広報にもなるからだった。目的は100万本のオリーブ栽培にとどまらず、日本社会そのものを健康にしていく本物のソーシャルファームの実現。未来を見据え壮大な夢に向かっている途中なのだ。
「いつも世界を目指すぞと言ってますけど、やはり具体的な目標があるとみんな頑張りますからね。オリーブオイルにしても搾油は素人だし、とてもコンテストに出せるレベルじゃなかったんです。たまたま入ったスタッフが機械をいじれたので、彼に全て任せたんですよ。それで銀賞を取れたので、今度は金賞だぞ!ってみんなに言って突っ走りました」
オリーブオイルはまだ販売できるほどではなく、ごく少量の生産になっている。でも、未来を語り、信頼して任せ、励ましながらやり切らせる育て方が、「新井方式」のようだ。
それにしても、関東で馴染みがなかったオリーブ栽培には、どうやって踏み切ったのだろうか。
直感で向かった小豆島での奇跡のような出来事
「2005年と翌年に小豆島から700本の苗木を運んで植えたんです。たまたま、ここ熊谷は夏の暑さが猛烈に厳しくて、利根川沿いの肥沃な土地とも奇跡的に合ったんですね。植樹後は他の農作業がすごく忙しくなったんですが、かえって手をかけられなかった分、病気に強い自然栽培で、小豆島と同じように育ってくれたんですよ」これは誰が聞いても、「なんて運の強い人なのだろう」と思わせるエピソードだ。
「僕らは元々、障がいのある人たちと製造業の下請け仕事をしていました。海外の安価な下請先に仕事が流れてしまうことが増え、農業に方向転換を決め、2003年にNPO法人にしたんです。まだその頃は福祉から農業への新規参入の例がなくて、いくつも壁にぶつかりました。でも、これからはスローライフだ! オリーブだ!と理由もなくひらめいて、もう直感です。下請け仕事を失って困り果て、小豆島に行ったんです」
つてもなく向かった小豆島で、新井さんが宿泊先の支配人にオリーブを育てたいと話すと、「オリーブ農園の3代目社長が同級生だから」と、オリーブ栽培のパイオニア的存在である井上誠耕園を紹介してくれた。翌日、新井さんがそこに向かうと、たまたま2代目社長(現会長)が新井さんの話を聞いて共感し、行政担当者に「オリーブの苗を売ってあげて」と、話を取り付けてくれたのだそうだ。
小豆島ブランドを守るため、オリーブの苗木は島外不出だったが、障がい者がオリーブ栽培で働く意義をしっかり受け止めてもらい、特別に新井さんの手に渡ることとなった。アポイントもなく出向いて、持ち帰ったこの素晴らしい成果。新井さんは年代寮の近くで、20年間耕作放棄地だった土地を借り、自らの手で開墾してオリーブを植樹した。
現在、埼玉と群馬それぞれの農園の1haずつがオリーブ園になっている。他にもビニールハウスの水耕栽培、施設栽培で深谷ねぎの苗づくりを300件の近隣農家から請け負い、地域の名人に習った玉ねぎ栽培も規模を拡大して力を入れている。
「玉ねぎの季節には、朝から晩まで毎日玉ねぎのことばっかり、どうすればやり切れるかをみんなで毎日話し合いながら、気合を入れてやっています。福祉だから平日の9時~5時で終了なんて甘いこと、農業では通じませんから。みんなには、自分のことばかり考えるなよ、半分は税金でお世話になっているんだから、半分は社会に貢献しなきゃダメなんだぞ、と言い聞かせてます」
福祉の枠で働くことが習慣化してしまうと、職員の人たちは支援対象として「もう時間だからね」と、作業を中断させてしまったり、当事者本人たちは「お世話されるのが当たり前」となって、一般の働く現場の意識とはズレてしまう。能力があったり本気で働きたい人にとって、やる気を削ぐことにもなりかねない構図だ。そこを新井さんは、税金で支えられていることを意識させて発破をかけ、働く意欲につなげているのだ。
19歳、受け入れる人を選ばない生活寮の寮長になる
オリーブ畑から利根川の土手方向に歩き、白菜畑の中に見えてくるのが「年代寮」だ。ここは1993年、脱サラをして縫製業を営んでいた新井さんの父、道夫さんが、福祉事業を営む知人の勧めで自宅2階を改装して、行き場のない4人の知的障がいがある人たちを受け入れたことから始まった。当時19歳だった新井さんは、その日から彼らと共に暮らすことになった。「わけがわからないまま、みんなが生活をしていくためにやるんだと、福祉の世界へ飛び込んだ感じでした」
寮生のための仕事の必要性を痛感した道夫さんは福祉事業に舵を切り、大学生だった新井さんに年代寮の金庫まで渡して運営管理を任せたのだ。その時からこれまでずっと、新井さんは寮生たちに「寮長」と呼ばれ、道夫さんとの関係は、「親子というより同志」になった。
新井さん親子が一貫して変えなかったのは、「受け入れる人を選ばない」ということ。「障がいがある人」と言っても単純ではない。複数の障がいを抱える人、また、障がいによる苦痛や生きづらさによって引き起こされる二次障害として、アルコールや薬物の依存症になった人、虐待やDV(ドメスティック・バイオレンス)の被害者となった人、ひきこもりやニートになった人、罪を犯して少年院や刑務所に入った人、さらにはシングルマザー、若年認知症、長期失業者、難病の人など、どこにも行き場がなくなった人たちを受け入れ、共に生活をしてきた。
新たに手の掛かる利用者が加わることで施設内に混乱をきたし、職員が対応しきれなくなることを避けるため、福祉施設では書類だけ見て難しいと判断した人を受け入れないことが多い。何カ所も断られた人は最終的に、新井さんのように全ての人を受け入れる覚悟をした所にやってくる。
「人を選んでいたら福祉ではないだろうと思って。とにかく困っている人は全て受け入れ、一緒に生活をする中で当たり前の生活習慣を身につけられるよう、人に迷惑をかけないよう、繰り返し言い続けて来た、それだけですね」と新井さんは言うが、ある時は狂気や病や死と向き合い、何事も責任を取ると腹を括り、経験の積み重ねがなければできない仕事だ。
そんな稀有な存在を知って、幅広い分野の人たちが大勢視察や見学に訪れる。少年院を出た後、再び罪を犯してしまうケースが多い中、年代寮に来た障がいのある人たちには再犯がないことに着目した、法務省の関係者や研究者も訪ねてきた。
「初めて少年院から行き場がなくて引き取った子は、発達障がいがあったんですね。最初は何も作業ができなかったんで、できることがないならリーダーやれよ、って言って、知的障がいのある子たちの農作業の面倒を見させたんです。彼はそれまで役割というのを任されたことがなかったから張り切るし、またほかの子たちはリーダーの言うことをきいてよく動くチームになったんですね。彼はトラクターの運転も覚えたし、ここに来てから12年経つんですが再犯せずに表彰もされて、頑張ってますよ」
そしてもう一人、後輩で少年院から来た子もまた、年代寮の集団生活で生活習慣を身につけてから、グループホームの1人部屋に移りステップアップしている。B型事業所から一般企業に雇用され、フォークリフトの免許を取得したという。
「みんな、仕事を任せれば貢献できるレベルに上がっていきます。頑張っても足りない部分は地域や企業の皆さんと一緒にやりながら事業を広げていくんだよ、って話してます。それがソーシャルファームなので」
少年院や刑務所にいた人たちの更生は法務省の管轄で、実は福祉の分野からすると「垣根の向こう」という状態になっている。障がい者や就労困難者、また児童福祉や高齢者福祉については厚生労働省、学校教育は文部科学省といったように、縦割り管轄の垣根を壊して飛び込む新井さんのような実践者がいなければ、具体的な解決方法は見えてこない。
これからは「地域共生社会」の時代と言われるが、省庁や制度、分野の枠、「支える側」「支えられる側」という関係をも超え、人と地域社会がいかにつながり、生きがいや役割をもって最期まで暮らしていけるか、先進的なソーシャルファームのような事例をどれだけ多くの人たちが共有して、地域に落とし込んでいけるかが鍵になるのだと思う。
どのように死と向き合い、最期とその先を見つめるか
年代寮で生活しているという青年が、少しはにかみながら、噛み締めるように、こう話してくれた。「僕がここに来て良かったと思うことは、毎日一生懸命、畑で働いて忙しいので、その間は何も考えずにすむことです。以前は毎日朝から晩まで、頭の中でずっと死にたい、自分は要らない人間だ、そればかり考えていて苦しかったです。ここに来てから死にたいって考える時間がなくなって、それがすごく嬉しいです」
彼は虐待を受けながら育ち、引きこもっていたという。彼を呪縛していた言葉を追い払ってくれたのは、太陽の下の畑仕事と仲間との生活。言葉が行為に移ってしまう前に、ここにたどり着くことができて、心底良かったと思う。一方で、彼と同じような呪縛に苦しみながら、支援先にたどり着けない人たちは、どうしているのかと案じてしまう。
困難を抱える人と24時間365日生活を共にすると、図らずともその人たちの死とも向き合うことになる。新井さんは、これまでも寮生の死を何度も見送り、度々逃亡する寮生が利根川で亡くなって水死体で発見されたこともあったという。また、都心にあった墓石に寮生の納骨をした時には、「こんな地下の暗く湿った牢屋みたいなところに亡くなってから入るなんて、かわいそうすぎる。自分だったら絶対に嫌だし、自分の親だったら解放してあげたい」とショックを受けたそうだ。
「僕なら、このオリーブの樹の根元に散骨してほしいですね。ずっとみんなと一緒にいられる気持ちになれるし、木の栄養にもなって自然の中で循環できる。僕は無宗教だし、それが一番いいです」
社会全体を健康にしようとする壮大なソーシャルファーム計画は、多くの日本人が「このままでは何かおかしい」と感じている社会の常識に対して、新井さんが生きづらい人たちと一緒に農業や周辺地域との連携を通して表現することで、一つずつ疑問を投げかけているようにも見える。
人生の最期までを共に生きることから、さらに死の先まで見つめ、自然の一部として循環しようとする考え方も、いずれはオリーブのソーシャルファーム計画のひとつになっていくのかもしれない。
写真:宮田尚幸
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羽塚順子(はねづか・じゅんこ)
特別支援学級で障害児を指導後、リクルートでの法人営業などを経てフリーライターとなり、3000人以上を取材、執筆。2009年より社会的に弱い立場の人たちと共存する母性社会づくりをライフワークに取り組み、伝統職人技を自閉症の若者が継承するプロジェクトなどでグッドデザイン賞を3回受賞。
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