デザイン:五十嵐 傑(pieni) イラスト:ペカ
アノニマ・スタジオWebサイトTOP > もうひとつの日本を訪ねて。Welfare trip もくじ > 09 社会福祉法人北海道家庭学校(北海道紋別郡遠軽町)
日常の生活から離れ、小さな旅をしたくなったら、私は福祉施設を訪ねます。
障がいのある人や、ひきこもって社会との接点がなくなった人、家族と暮らせない人などが通う所です。
「なぜ、そこに行くの?」と訊かれたら、お手伝いできる仕事があるかもしれない、ということを口実に、単純に、好きだから、行きたくなる、と答えます。
各地の施設を訪ねるようになって十数年、その数は300箇所くらいになります。
地域ならではの手仕事を、福祉施設と一緒にやっている方たちともお会いしました。
これまでに出会った、私が心惹かれた場や取り組みをご案内させてください。
福祉という切り口から見た、もうひとつの日本の風景。
ここで一緒に小さな旅をして、新しく出会う景色に思いを寄せていただけたら、嬉しく思います。
障がいのある人や、ひきこもって社会との接点がなくなった人、家族と暮らせない人などが通う所です。
「なぜ、そこに行くの?」と訊かれたら、お手伝いできる仕事があるかもしれない、ということを口実に、単純に、好きだから、行きたくなる、と答えます。
各地の施設を訪ねるようになって十数年、その数は300箇所くらいになります。
地域ならではの手仕事を、福祉施設と一緒にやっている方たちともお会いしました。
これまでに出会った、私が心惹かれた場や取り組みをご案内させてください。
福祉という切り口から見た、もうひとつの日本の風景。
ここで一緒に小さな旅をして、新しく出会う景色に思いを寄せていただけたら、嬉しく思います。
大人を罰するより少年時代の環境と教育を変えることを目指して
09 社会福祉法人北海道家庭学校
(北海道紋別郡遠軽町)
明治時代の感化教育から民間の「児童自立支援施設」へ
女満別空港からバスで北見駅に向かい、JR石北本線のホームで一両だけの電車に乗る。乗客は数人だけ。辺り一面を赤々と染める夕日を車窓から眺めながら、1時間半ほどで遠軽駅に降り立つと、すでに日は沈んで暗くなっていた。歴史を感じさせる焦げ茶色の木造の頑丈そうな階段を踏みしめ、ホームから線路を越えて改札に向かう。オホーツク海にほど近いこの町にいつか来たいと何度も地図を見ていたが、やっと訪れることができた。
翌日は朝から、社会福祉法人北海道家庭学校(以下、家庭学校)を訪れる約束をしていたので、この日は北海道に住む私の息子に迎えに来てもらい、小型キャンピングカーを近くの道の駅に停め、車中泊をすることにした。朝を迎えて目的地へと出発する。遠軽駅からは5キロほど、北西に向かって車で10分とかからず「家庭学校」の丸いバス停の標識と、石造りのどっしりとした門柱が見える。うっかり通り過ぎてしまいそうなほど周辺の風景に馴染んでいるが、ここは全国でも唯一の民間による男子のみの「児童自立支援施設」になる。
児童自立支援施設とは、「社会的養護(保護者と家庭で暮らせないなどの子を、公的責任で保護・養育すること)が必要な児童」を対象とする児童福祉施設の一つで、全国に58カ所ある。小学生から18歳未満の「不良行為をなし、又はなすおそれのある児童」に加えて「家庭環境その他の環境上の理由により生活指導等を要する児童」も児童相談所の措置を受けて入所してくる。少年たちは、ここで1年から2年程度の間、寮生活と学業、作業などを通して生活習慣と心身を整えていく。
歴史的に見ると、1900年、「感化法」として、適当な親権等を行う者がなく不良行為をなしたなどの8歳以上16歳未満の少年を「感化院」に入所・教化させる法律が制定された。その後、「少年教護院」「教護院」と呼ばれる時代を経て、1998年施行の児童福祉法改正によって「児童自立支援施設」となった。
法務省管轄の少年院とは異なり開放処遇にしているので、建物に鍵をかけず、石造りの門には柵も扉も塀もなく、人も車も動物でも出入り自由だ。かつてはここから毎日のように少年が脱走を繰り返し、職員は捜し回ることが常だったと本に書かれていた。
その本とは、20歳頃に私が手にした家庭学校のルポルタージュが掲載された『父よ母よ!』(太郎次郎社)と、家庭学校で寮長を務めた藤田俊二さんの生活記録『もうひとつの少年期』(晩聲社)だ。当時、著者の葛藤の日々と少年たちへの深い愛情に圧倒され、「このような現場をいつか自分もきちんと知り、紹介する記事を書けたら」と思った。
まだ個人情報保護に甘かったその時代、本には子どもたちの表情と日常風景の写真が数多く掲載されていた。石造りの門に座るあどけない笑顔の小学生、雪の校舎前に学ラン姿で仲良く並ぶ男子中学生たち。過酷な状況の家庭で生まれ育った彼らのことが心に焼きついた。
当時はまだ、「子どもの貧困」とか、「児童虐待」といった言葉は、世の中で使われていなかった。
東京ドーム93個分もの北の大地を少年たちのために一から開拓
やっと訪れることができた家庭学校。広い敷地内に入りまっすぐ延びる道を進む。総面積は439ヘクタール(約130万坪)で、東京ドーム93個分以上と、見渡してもどこまでなのかわからない。敷地内の地図が描かれた鳥瞰図を見ると、山を含んで、複数の寮舎、本館、体育館、給食棟、グラウンド、診療所、牛舎、バター・チーズ製造舎、木工教室、礼拝堂などがある。約束の時間まで、先にバター・チーズ製造舎と牛舎に車を走らせてみる。子どもたちは校舎の中で授業中のため、敷地内は誰もいない静かな風景が続く。長年、牛を育ててきたことがうかがえる牛舎と付属設備が見えてきた。ここでは大正時代からバターを製造してきた歴史があり、生乳は食品メーカーにも卸している。手づくりされているバターやチーズは、家庭学校の通販サイトで販売もされている。
事務所に向かうと、建物前には家庭学校創設者である留岡幸助氏の胸像があり、「一路到白頭」と刻まれている。一つのことを白髪になるまでやり遂げるのだという、恵まれない境遇の少年たちに一生を捧げる覚悟の言葉だ。建物の中には、遠軽町立小中学校の分校として「望の岡分校」の教室と、職員室がある。校長の清澤満さんとご挨拶をする。
「どうぞ、お待ちしていました」と校長室に入らせていただく。「お話をした後、敷地内を回ってみましょうか。礼拝堂などご覧になりたいですよね。午後には作業があるので、ぜひ子どもたちの様子を見てください」と気さくに言ってくださった。
清澤校長は10代目の校長となる。北海道職員として、児童相談所、障害者施設などを経験してこられた。「これだけ歴史と伝統のある施設の校長ですから、責任が重いです」と苦笑いをされるが、家庭学校の歴史は古く、先駆的だ。留岡氏が東京・巣鴨で「家庭学校」を立ち上げたのは1899年。「感化法」が制定される前の年のことだった。
その後、大自然の中で学べる教育農場として、遠軽の地で一から開拓を始め、1914年に北海道家庭学校を開校した。この広大な寒い北の大地を「開拓した」と一言で済ませられないほど、木を切り倒すだけで年月がかかり、畑を耕しても作物はなかなか収穫できず、長い苦渋が続いたそうだ。それも自分のためではなく、少年たちのための開拓で。
岡山県出身の留岡氏が生まれた江戸末期、武士と平民の身分制度が根強く残り、留岡氏は子どもの頃に受けた不条理な体験から、平等な社会の実現を願って洗礼を受け、牧師の道を歩んだ。その後、北海道・空知にある監獄(現在の刑務所)の囚人たちを導く「教誨師」となるが、そこで2000人以上の過酷な刑罰を受ける重罪の囚人たちのほとんどが、少年時代の家庭に問題を持ち、救いの手が差し伸べられないまま大人になっていることに気づく。
「大人になった彼らを罰するより、少年時代の環境や教育が重要だ」と、アメリカに渡って当時の監獄事情を学び、帰国後、家庭学校設立に至った。
家庭的寮生活、習熟度別授業、作業班学習と、きめ細かな支援
留岡氏が名付けた「家庭学校」。「家庭(寮)では愛を受け、学校では知を受ける」ことを目指した、わかりやすい名称だ。家庭的に恵まれない境遇の中で問題を起こしてしまう少年たちが、ここで愛着関係を形成して育ち直りができるよう、親代わりの職員夫妻と共に、愛情ある家庭的な寮生活を過ごす「小舎夫婦制」とした。寮では食事の支度、畑仕事、薪割りなどを手伝い、生きる喜びと厳しさを学べるようにしてきた。今でもお風呂は薪割りをして沸かしている。「児童自立支援施設となった現在でも、全国に小舎夫婦制が3割程度残ってはいますが、最近では住み込みで職員を希望する夫婦自体が減り、職員交代制の施設が増えています」という。
ここでの子どもたちの生活の基本は、留岡氏の教え「 能く働き、能く食べ、能く眠る」の3つを実践している。朝夕は畑でつくった野菜をふんだんに使い、職員(寮母)と一緒にご飯の支度をして、昼は全員が給食室で栄養バランスの良い給食をいただく。
2009年からは小中学校の分校教員によって、個々の習熟度に合わせた授業が行われている。また、週3日間、職員と教員が生徒たちと一緒に作業班学習を実施している。
「せっかくですから、分校での授業をご覧になってみますか?」と促していただき廊下に出ると、絵の先生と子どもたちの合作で、空から見た家庭学校を描いたという、幅4~5メートルはある色鮮やかな絵画が飾られている。
教室を回らせていただくと、北海道内からここで暮らすようになった小学5年から中学3年生までと、中学卒業後の生徒合わせて15名の生徒が、国語、英語、音楽、保健、生活と5つの教室に分かれて授業を受けている。中には教員とマンツーマンで学んでいる子もいた。どの子も集中して落ち着いて授業を受けている。授業の様子を見学するだけでは、子どもたちにどのような問題があるかは、全くわからない。
教室が並ぶ廊下の奥に、木彫りで「生徒木彫作品」と紹介された、実に見事な作品が飾られていた。
「これはかなり古い作品なんです。こういう木彫りからもわかるように、かつては、問題を起こしてここに来るような生徒たちは、有り余るエネルギーを発散させていたというか、勢いとか力強さがあったんですね」
パソコンが普及する前は、今より身体を使う機会が圧倒的に多かった。手しごとも盛んだったはずだ。アイヌの木彫りの指導があったのではと思わせる作風と彫りの深さだった。また、敷地内のあちこちにある倉庫や小屋は、全て職員たちが少年たちと建てたという。
9割もの子どもたちに見られる被虐待と発達障がい
家庭学校に来る子どもたちの問題行動の数字を見せていただくと、多かった傾向は、昭和から平成にかけて、怠学、飲酒、喫煙、外泊、不良交友、金銭持出など。平成から令和にかけては、家庭内暴力、不登校、万引その他窃盗、暴力行為、性的非行、金銭持出など、時代と共に変化をしてきている。また、ここ数年顕著なことは、被虐待経験と発達障がいの有無について、どちらも疑いを含めると「9割が被虐待経験と発達障がいあり」となっている。
発達障がいとしては、「グレーゾーン」や「ボーダー」と呼ばれる子どもたちが多いというが、ASD(自閉症スペクトラム)傾向が6割を超え、ADHD(注意欠如・多動症)傾向が4割を超えている。この数字だけ見ると、家庭学校に来る子どもたちが問題行動を起こしてしまう要因として、発達障がい児の育てづらさから生じる虐待的な養育と、子どもの満たされない感情が深く関係していると言えそうだ。
「朗読会」で発表された子どもたちの作文を見せてもらうと、人の話を聞く、自分のことを伝える、といったコミュニケーションが苦手である様子や、すぐ諦めてしまう、思い込みが強い、落ち着いて行動できない、片付けができない、といった自分の良くないところを変えたいという、それぞれの子どもたちの思いが書かれている。
しかし、清澤校長が「子どもだけではなく、世帯全体をよくみる必要があります」と言うように、この状況を受け、2019年、家庭学校の敷地内に「樹下庵診療所」が設置され、児童精神科の専門医による子どもたちの発達や心理ケアをはじめ、家族が宿泊して行う家族交流支援事業にも取り組むようになった。
時代は変わっても、創設者の留岡氏の言う「大人になってから罰するより少年時代の環境や教育が大切」という真実は変わらない。全国の児童相談所に寄せられる相談内容を見ても、社会的養護が必要とされる子どもたちの要因も、統計では児童虐待が圧倒的に多い。児童虐待の定義には、身体的暴力だけでなく、言葉や態度による心理的虐待、育児放棄(ネグレクト)、性的虐待なども含まれる。子どもたちのこれからの人生のためにも、早い段階で虐待から救い出されてほしい。児童虐待の痛ましい事件がニュースで流れるたびに、誰もが心を痛め、願っていることだ。
教室から外へ出て、礼拝堂がある望の岡に向かって歩く。その手前には「平和山登山口」の立札がある。留岡氏も好んで登っていたという平和山には、毎月1回、全員で登山をするのが恒例行事だという。
以前、不登校でひきこもりだった少年が、全く登れなかったというエピソードを清澤校長が話してくれた。
「その子は家で暴力をふるい、ずっと家にひきこもっていたんですが、自力で身体を支えられないほど体重が増え、ここに来た当初は寮から分校まで坂を上って来られなかったんです。毎朝、同じ寮の子どもたちみんなで、その子を後ろから、よいしょよいしょと手で押して坂道を上ってくるんですね。山に登る時もみんなで押していました。そうやって何ヶ月かかけて、平和山にもやっと登れるようになりましてね。彼は歩けるようになって体力がついたら、意欲が出て勉強の成績も上がり、中学を卒業する時には総代を務めるほどになりました」
ひきこもりだった子の回復の喜びはもちろん、その子を毎日押しながら歩いた子どもたちは、仲間のために一生懸命に助け合いながらの一体感と達成感を感じていたのではないか。
文化財にも指定され、家庭学校の象徴でもある礼拝堂は、大切に修繕を重ねながら、質素ながら品格のある凛とした佇まいを見せている。正面の壇上には「難有」の文字が掲げられ、留岡氏の「ありがたいという感謝の言葉は、難が有ると書かれる。困難があるのは、自らを成長させてくれるありがたいことなのだ」との教えが受け継がれている。
「毎週礼拝があり、私もここで子どもたちに話をさせてもらっていますが、礼拝堂には鍵をかけず、訪れた人たちが自由に見学できるように開放しています」
望の岡を下り、家庭学校の歴史的資料が展示された博物館に入らせてもらう。入り口近くに留岡氏に関する資料部屋、その隣には、長い歴史の中で寄贈された貴重なオルガンやピアノなどの楽器、様々なコンクールで受賞した子どもたちの作品などが並んでいる。やはりアイヌの木彫りは目を見張るものがある。
先輩から脈々と受け継がれる作業班学習の精神
博物館から外に出ると、子どもたちの作業時間が始まっていた。作業着で熊手を握り締め、草をかき集めている小学生たち。少し離れたところで、ブーンと音を立てながら防護服を着て刈り払い機を使った草刈り作業をしている中学生もいる。
「刈り払い機を練習して使えるようになるというのは、子どもたちにとって一つのステイタスなんですね。年下の子は早く使えるようになりたいなと、憧れているんですよ」
小学生は熊手を動かしながら時折横目で、「慣れた手つきで機械を扱うかっこいいお兄さん」を見ている。
作業班は「蔬菜班」「園芸班」「山林班」「校内管理班」「酪農班」の5班がある。週3日の作業時間のほか、毎日の朝作業として、朝食準備や清掃、寮の畑作業、夕方の作業として、夕食準備、風呂焚き、薪割りなどもある。
子どもたちは、職員と教員の指導のもと、毎年1回「作業班学習発表会」というプレゼン大会を行っている。どのような作業をしてどのような成果を得ているかを班の仲間と客観的に見つめ、人に伝えるという学習の機会になっているようだ。
清澤校長にお礼のご挨拶をして、石の門に向かっていく道すがら、作業小屋の解体と組み立てをしている「校内管理班」の子たちがいた。中学生は慣れた手つきで工具を使い、ドリルでネジを外したり、刷毛を使っていた。その向こうでは、「山林班」の子どもたちが木の伐採のために山の斜面を登っていき、豆粒ほどの小さな姿になって動いている。冬になると一週間ほどスキー学習で使うというスキー山だ。
真面目に作業をする子どもたちの様子は、かつて私が本の写真で見た昔の家庭学校の子どもたちと何ら変わっていない気がした。
「木工教室」と古い手彫りの看板の小屋を過ぎ、石の門を背にして、一般道路に出る。
『もうひとつの少年期』(1979年)には続きがある。藤田さんが家庭学校を定年退職後、寮にいた元少年たちを訪ね歩く記録『まして人生が旅ならば』(教育史料出版会・2001年)が約20年後に出版されたのだ。私はその本を開くまで、大人になった少年たちが幸せな人生にたどり着いたことを期待したが、多くのその後の人生は明るいものではなかった。
藤田さんに長年連絡を取り続けた元少年は、立ち直ろうと仕事をして家庭を持ったが、どこまでも追いかけてお金を無心してくる親から逃げきれず、本人が蒸発したという顛末を読み、絶望的な気持ちにもなった。
しかし、ネットで情報が見つかる今の時代なら、子どもを抱え生活に困窮する保護者は、支援情報を探すことができる。行政の窓口相談や無料の弁護士相談、SOSを出せる支援機関や団体に相談をすれば、何らかの支援につながれる可能性は大きい。以前より確実に支援先とのパイプは太くなっているのだが、保護者である大人自身が本気で、「このままではダメだ」と勇気を出して一歩を踏み出さなければつながることはできない。小中学生の子ども自らが「児童相談所虐待対応ダイヤル(189)」のような支援機関にSOSを出すのは、とても難しい。
少なくとも周囲の大人たちが、虐待ではないかと疑わしいことを見聞きしたら、無関心のままでなく、匿名でも通報をする人が増えることで救われることもあるだろう。
留岡氏が100年以上前に灯したあかりが、これからも少年たちと家族を救い、北の大地に希望のあかりを灯し続けてほしい。
写真:羽塚冬馬
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障がい者や社会的弱者たちが働き、暮らしている、各地の福祉施設や共同体を紹介する一冊。そこは、「一般社会と壁を隔てた向こう側」ではなく、地域に根付き地域と交流し合う「福祉的な場」。人間同士が支え合いともに生きるという本来の在り方を伝えます。
羽塚順子(はねづか・じゅんこ)
特別支援学級で障害児を指導後、リクルートでの法人営業などを経てフリーライターとなり、3000人以上を取材、執筆。2009年より社会的に弱い立場の人たちと共存する母性社会づくりをライフワークに取り組み、伝統職人技を自閉症の若者が継承するプロジェクトなどでグッドデザイン賞を3回受賞。
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