アノニマ・スタジオWebサイトTOP > 五味太郎×國分功一郎トークイベント「絵本と哲学の話をしよう」@銀座蔦屋書店2018年9月28日 イベントレポート 1/4
五味太郎×國分功一郎トークイベント
「絵本と哲学の話をしよう」イベントレポート 1/4
2018年9月28日に、銀座蔦屋書店さんで五味太郎×國分功一郎「絵本と哲学の話をしよう」が開催されました。
たくさんの方々にお集りいただき、1時間以上にわたって絵本と哲学、音と言葉などさまざまにお話いただきました。 当日の模様を、全4回にわたってお届けいたします。
たくさんの方々にお集りいただき、1時間以上にわたって絵本と哲学、音と言葉などさまざまにお話いただきました。 当日の模様を、全4回にわたってお届けいたします。
銀座蔦屋書店 中村さん(司会)
本日は銀座蔦屋書店にご来店いただきましてありがとうございます。
アノニマ・スタジオより刊行された『対談集 絵本のこと話そうか』、『CUT AND CUT!キッターであそぼう』の刊行を記念して、絵本作家の五味太郎さんと、哲学者の國分功一郎さんによる「絵本と哲学の話をしよう」を開催いたします。
『CUT AND CUT!キッターであそぼう』は、五味太郎さんによる“頭をやわらかく使う”工作絵本キットです。そして『対談集 絵本のこと話そうか』は、28年前に刊行された『素直にわがまま』(偕成社)をもとに復刊されたものです。絵本専門誌である「月刊MOE」にて、当時の編集長松田素子さんが、「ものをつくる」ということについて、あらためてさまざまな方たちにちゃんと話をお聞きしたい、という気持ちからはじまった、リレー式の対談がたくさん掲載されています。本書に一番多く登場するのが、五味太郎さんです。
ここにいらっしゃるみなさんをはじめ、五味さんの絵本を愛する読者の方は世代を超えてたくさんいらっしゃると思います。哲学者の國分功一郎さんも、すっかり五味さんの絵本に魅せられている読者のお一人です。そこで今回はこの二冊の刊行を記念して、お二人に「絵本と哲学」のお話をしていただきます。トーク終了後にはサイン会も開催いたしますので、こちらもあわせてお楽しみください。
と、いうことなのですが……
(ステージには國分さんのみ)
國分功一郎さん
えっと、五味さんは今、たばこを吸っています(笑)
五味さんてどういう人なのかなと今日けっこうビビって来たんですけど、そういう感じの方なんですね。
僕は、娘が小さい頃に絵本を読んでいて、五味さんの本を発見してものすごい大好きになりました。これ(『かくしたのだあれ』)とか特に好きで、子どものらくがきが本にたくさんしてあるのを先ほど五味さんに見せたら、「これがいいんだよ〜最高だよね!」とおっしゃって頂きました。これすばらしい内容なんです。ちょっと小さくて見えないかもしれませんが、五味さんのすごいインパクトのある写真(*巻末の著者近影)がのっていて、娘と一緒に「こんなかわいい本なのに、五味太郎ってなんか、怖い顔してるね!」と娘と言っていたのが、最初の頃の思い出でした(笑)
今日、いろいろ好きな作品を持ってきました。と、こうやって話しているうちに五味さんがいらっしゃると思います。
これ(『さる・るるる』)知っている方も多いと思うんですけど、今日五味さんに聞きたいと思っているのが、言葉と絵の関係。五味さんの本って言葉がすごくリズミカルで、「さる あさる」「さる かいあさる」「さる かざる」「さる おぶさる」「さる まざる」「さる リハーサル」、とこういう風にいくわけですね。
「さる リハーサル」というところは、僕本当に爆笑してしまうんです。えっと、まだ五味さんいらっしゃらないから、「よみきかせ」的にこれを読みたいと思います。一番好きなのがこれ(『ヒトニツイテ』)なんですが、みなさんご存知ですか?
あ、五味さんがいらっしゃいました!
どうぞ、五味太郎先生です!
(会場から拍手)
なんとなく、はじめておりました。
五味太郎さん
おまえ、誰だっけ?
國分さん
國分といいます(笑)
司会
あらためまして、絵本作家の五味太郎さんと、哲学者の國分功一郎さんです!
(拍手)
五味さん
(スライドの『かくれんぼかくれんぼ』『かぶさんとんだ』を見て)
なんか、昔、ちゃんと描いてたなあって、感動するね、本当に。
國分さん
今はそうじゃないんですか?
五味さん
うん、まあ、いいや。
國分さん
今、僕の好きな本を紹介していたんです。
五味さん
ありがとうございます。
國分さん
なのでちょっとだけ、話の続きをさせていただければ……すみません。
五味さん
この人、学校の先生だからね。理屈が多いのよ。
國分さん
僕この『ヒトニツイテ』がとにかく好きで、本当にこれはもうすばらしいというか、ちょっと衝撃的なものですよね。
五味さん
それが、あまり売れなくて良かった。
國分さん
あ、そうですか。
五味さん
それがすべてじゃない?もう総論だもの。それ1冊で終りっていう感じなの。これがあんまり売れなかったから、各論をいっぱい売っていけるわけ。
國分さん
これは五味太郎哲学の総論なんですね!
五味さん
考えたら、「人について」ずっと考えているわけだから。ほかのものについて興味はないし。「人について」考えて、描き切ってるよね、それ。実は早稲田大学のゼミでずっと教科書に使ってくれている先生もいらして。一度そのゼミに呼ばれたよ。「人生これだけ読めばいいよ」って言うから「ちょっとそれじゃ色気ないよね」って。「これさえ読めばいいんだ、バイブル(聖書)も何もいらない」と言われて、「それは言い過ぎでしょう」と。つまり、もうこれ以上描かなくていいということを言うわけ、先生は。でもそれだと俺はつまらないし、なかったことにしようと(笑)
國分さん
みなさん、これ読んでない人はぜひ……
五味さん
いや、なかったことにして(笑)
國分さん
売れなかったんですか?これ。
五味さん
売れないんじゃなくて、売らないんだ、なるべく。
國分さん
五味さん、と呼ばせていただきますが、五味さんはご自分の本がかなり好きなタイプとお聞きしたのですが。何回か読み直したり。
五味さん
(読むと)いい人だなーと思うよね。ファンレター書こうかなと思うくらい。要するに、センスが似てるわけ。
國分さん
それは、そうですよね、本人ですから(笑)
五味さん
家でもずっと読んでるわけ。ちょっとあまいなと思うこともあるんだけど。「この人いい人だなー」と。あたりまえだよな。
國分さん
いや、あたりまえではないと思います。あたりまえじゃない人もいると思います。僕も自分の本好きで何回も読んじゃうんですけど、自分の本が好きって大事じゃないかなと思います。自分で作ってるんですから。
五味さん
俺は「自分の本好きじゃない」っていうやつとも会いたいけどね。
國分さん
まあ、それもそうですね。
五味さん
それ、面白いことだと思うんだよね。そういう感覚もあっていいと思うし、たまたま僕は能天気な場合だったというかね。
國分さん
今日は「どういう話にしよう」ということは何も決まっていないんですが、会場のみなさんに、このまえ鷲田清一先生が朝日新聞の「折々のことば」で、五味太郎さんの“わかるわからないということじゃない価値観がないかなと探ってる”という言葉、この復刊された『絵本のこと話そうか』の中の言葉をご紹介しているのをお配りしています。これはすごく五味さんの、ある意味でのスタイルを象徴している言葉だと思いました。
五味さん
そんなこと言ったのかな(笑)
あえて言い方がもたもたしてるんだろうけど、あえて自分の言葉を自分で翻訳するのも変なんだけど、もうちょっとわかりやすく言えば、「わかる、わかんないってどうでもいいよね」ということ。「わかるわかんないってことより大事なことがあるだろう」という。「いや、ありません」と言われたらそれまでなんだけど、もっと価値のある判断基準があるな、とは思ってるね、実はね。
國分さん
この対談集、僕すごく面白く読んだんですが、この中で最初の頃、『おじさんのつえ』について「内容がない」とか「子供にこれを教えたいということがない」とか、批判・批評されたというご経験について語っていますね。「半分嬉しかった」って(笑)
すごくさきほどの言葉と共鳴している感じがしました。
五味さん
やりながら気がついたことなんだけど、「絵本」というスタンスが全然違うんだよ。始めてから気がついてどきっとしたんだけど、絵本って「子供のために」とか、「子供に何を与えるか」ってことが主流だったような気がする。俺は絵本を勉強して入ったわけじゃないし、そういうことだったら別に俺は入る気なかった。
國分先生もさ、急に「先生」って呼ぶけど(笑)
國分さん
先生じゃないですよ(笑)
五味さん
「先生と言われるほどのばかじゃなし」って言葉あるよなあ(笑)
いや、ばかにしてるわけじゃないんだ。「哲学」とよく似てると思うんだけど、「哲学って役に立ちますか」みたいな話ってよくあるよね。単純に言うと、哲学って大いなる遊びだから。人間がどこまで考えられるか、あるいはどこまで考えを否定しながらさらに否定で肯定していくような考えが可能だろうか、って遊んでるわけじゃない。ギリシャ、ローマの頃、もっと言うと古代インドの頃から、もっと前かな。そうやって延々とやってきた哲学というものが、20世紀に入って一種の実利主義みたいのが出てきて、役に立つか立たないか、みたいな話になって、元気がなくなっちゃった。役に立たないんだよな。
國分さん
役に立つんですか、と言われたときに、その問いにのっかっちゃいけないんですよね。それを無視して、「哲学というのはですね……」と答えるのが、僕のしていることです。
五味さん
「それはともかく」って言葉、いいよね。
絵本も実はおんなじで、「子供の役に立つか立たないか」なんてことをずっと問うている編集者は気の毒だよね。はじめから矛盾していることを問い続けていかないとならない。もっと行くと、「子供をどうやって導くか」となる。「人を導く」なんてことを昼間から本気で言うようになったら、人間おしまいだよな。
國分さん
本当、そうですね。
五味さん
こわいでしょ。宗教もそうだよね。宗教的な原理で動いている社会というのを俺はどうしても信用できない。あらゆる宗教、あらゆる教育。これを俺は相当疑ってるんだなということに、この仕事やりながら気がついた、だんだんだんだん。そこでいつもバッティングするのは、「子供たちに良いものを与えたい」ってのは余計なお世話だ、って話なんだよね。
國分さん
すばらしい話だな、それ。今日の名言(笑)
五味さん
すばらしくなんかないんだよ。そしたら「じゃあさようなら」、おしまいだよ(笑)
だから、『ヒトニツイテ』が売れなくてよかった、って、そういうことなんだよ。というより、もちろんあれはそういう議論があってはじめたわけでは全くなくて。心うれしい作業をずっと続けていて……君にとっても、考えることの面白さというのがあるんだろ。嫌なガキなんだよね(笑)俺なんか本当に、今から考えると嫌なガキだったと思うけど。
「導かれたい」と思ったこと、一回もないわけよ。ところが、いろんな人がやってきて「あんたを導く」みたいなことをいっぱい言うわけ。で、僕は生まれが良いから「いらねえよ」とは言わない。「ありがとうございます」と言っておいて、どうやって逃げるか、みたいなことばっかりやってた気がする。なんで俺が導かれなくちゃならないんだ。びっくりするよ。なんでみんなこんなに導いてくれるんだろうか。導きたがるんだろうか。
今たまたま日本という国は原理主義の国じゃなく、ある宗教(的なもの)をベースにして社会を作ろうってことをやらなかった、ありがたい国だけれども、たとえば教育というシステムみたいなものは、もう一回考え直したほうがいいなと思ってる。別に社会運動はしたくないんで、あんまりそういうことは言わないけども。
國分さん
五味さんて、創った作品をどなたかに見てもらって、「これは絵本だよ」と言われて、そんな感じで始められたみたいなことをお聞きしたんですけども。
五味さん
ああ、そういう友達がいてね。作業してたら「それは絵本だよ」と言って、出版社のリスト作ってくれたり……いいやつがいるんだよね、世の中には。
國分さん
リストまで作ってくれたんですか。
五味さん
あいうえお順でね。2、3電話をかけて、「い」に岩﨑書店があったんだけど、そのリストをつかったのはそこまでで、すぐにスタートしちゃったから、そのリストはあまり活躍しなかった(笑) 文化出版局はリストのずっと後の方だったけど、そんなに深い理由があったわけじゃなく、近所にあったから行ったんだ。
要するに既成の絵本をみて「この世界に入ろう」と思ったわけじゃないんだよね。そういうものがあることはうすうす知ってたんだと思うんだけど(笑)
ディック・ブルーナさんの『うさこちゃんとうみ』なんてのは昔から手元にあった覚えがあるし、絵本らしいものも(手元に)あったんだけど。作業してるときに「こういうの、出版社に持って行ったほうがいいんじゃない」という友人がいて、「あ、そっか」みたいな感じで。
ただ、俺にもやることいろいろあったし、今もあるし(笑)、そんなに絵本にこだわってるわけじゃない。「なんとか食えそうだな」というか。ごはんを食べるとか稼ぐということ、あんまり考えなくても得意なんだよね、俺。
國分さん
さっき「導く」って話がありましたけど、そして五味さんが周りに導かれるという話がありましたけど、五味さんといると周りが五味さんを導くというか、うまく乗っかってくとお金が入るみたいな、そういう感じですかね。
五味さん
それほど楽じゃないよ(笑)
國分さん
すみません、言い過ぎました(笑)
五味さん
というより「俺は何かするよ」っていう感じが昔からある。
何かすればそれは当然、労働の対価みたいなことだから、お金が来るんだよね。
今「仕事がない」みたいなことを言う人がいるけど、そういう状態がよく理解できない。仕事って、作ればいいんだよ、という感じ。待ってると仕事は無いだろうなと。余計なおせっかいをすればいいわけじゃない。たとえばダンボールが積んであって、おっさんに「このダンボールどうすんの」って聞く。「業者が運ぶんだよ」と答えたら「俺が運ぼうか」と言えば「じゃあ頼むよ」と、そんなようなものよ、その程度。
國分さん
すごくよくわかりました。
少し話は戻るんですけど、「絵本作家」五味太郎を考えるときに、子供が先にないということですよね。
五味さん
全然ない。
國分さん
全然なくて、作っていたら「これ絵本かな」という。
五味さん
だから、すごい簡単なんだよね。気が合えば、趣味があえば、面白いものは面白いんだよね。合わなければ面白くないものは面白くない。それだけ。だからガキを導く気は全くない。導かれなくて全然いいわけ、やつらは。本当にあいつらは、清らかな存在だよね。全然導いてくれなんて言ってないもん。彼らが読めるように考えてる。だから、大胆に飛ばす。実は俺も同じで、読めない漢字が出て来たら飛ばすよね。
國分さん
それはそうですね(笑)
五味さん
だいたいざーっと読んで、戻って読んで、わかんなければ、飛ばすわな。大体飛ばしてもわかる。勘がいいんだよ。「このあたり本題に関係ないな」というのがわかるんだよね、瞬間に。さっと読んでわかんないのは、文章が悪いと思うわけよ(笑)
國分さん
それはそうです。
五味さん
試験なんかも、ぱっと見て分かんないのは、「これ、問題が悪いんじゃないですか」とか言って怒られてた(笑)
彼らは反省しないから、「いや、問題は悪くない」と言ってたけど。
要するに、子供は子供並みよ。それで十分じゃない。僕たちもそうだし。
もっと言うと、「子供」って言葉を、「大人」との対比で使うの、めんどくさいね。あいつらちっこいんだよね、それだけの話。ちっこくて、まあ経験が少ないから経験値が足りない。あと金持ってないね、あいつら(笑)
國分さん
ああ、それ大事ですね。つまり親に買ってもらわないといけないから(笑)
五味さん
それらだけが彼らのファクターであって、ほかは何も変わんないよね。全然変わんない。
國分さん
そういう風に僕も思います。ただ今五味さんに言われるまで、そういう観点を忘れていた気がします。
五味さん
どういう観点持ってた?
國分さん
子供は子供で、守ってあげなきゃいけないという気がすごくするような……
五味さん
やっぱりフランスの哲学をやっていると、当然ヨーロッパの精神史みたいなものに触れるはずだし、つまりルソーのあたりに「子供が発見された時代」みたいなのがあるじゃない。それまで「子供」じゃなかったんだよね。ちっちゃい人間だったんだ。あのころが幸せだったのかなと思う。イギリスでディケンズみたいな人が、皮肉にとんでもないガキを書くよね。そういう時代があって、ある時点で「子供にも人権あるよな」というような、あたりまえのことをあらためて感じちゃった。そういう紆余曲折の中で、「子供」というのがやっぱり、大人にとって必要だったんじゃないかな。これは難しい話だけど、先生にとって、生徒が必要なのと同じだよな。
國分さん
そういうことかもしれないですね。
五味さん
でも生徒にとって、先生ってあんまり必要じゃないよね。
國分さん
そうですね(笑)
五味さん
ここがきついとこだよな。(あなたは)必要と思われる先生になってね(笑)
國分さん
はい、わかりました(笑)
五味さん
だから、子供にとって「必要だな」と思わせる大人になっちゃえばいいんだよな。大人にとって「子供」は必要なんだもん。小学校なんて最たるものだぜ。
学校を経営するためには子供がいないと格好がつかないだろ。本当はお客さんなんだよね。ところが「あなたがたは導かれるべきものだ」という風に設定してあるわけよ。医者と患者の関係に似てるよな。「あなたは私が治療すべき人だ」という。俺は「もういい」と言っているんだけど、「いや、まだまだ悪いですよ」と言われる。実際悪いこともよくあるよな(笑)
つまり、一種の産業資本主義的な枠組みの中で、対象としての必要性で「子供」を設定しているような気がする。 そうすると、子供も「子供」をやんなくちゃいけなくなる。ここで、器用なガキはなんとかこなせるよね。いるんだよね、子供の中にもそういううまい奴が。「ぼくわかんないもん」とか言って、かわいがられて。
國分さん
いますよね。
五味さん
存在そのものはもちろんかわいいんだけど、あえて「子供」をやらなくちゃならないところに一種の二重性みたいのが出てくる。
どんなきれいごとを言おうと、商売でしょう。「子供」のために売るものを作ってる奴が、言い訳として「子供の文化」みたいなことを言い始める。よくあるように「絵本は何で必要か」、と「必要」を言うんだ。知識と情操と何とかかんとか、と苦しいことを言うわけ。絵本は「児童書」とか言われてるけど、俺はまったく無視してる。いらないもん。
國分さん
「児童書」という言葉がなくなればいい、と。
五味さん
そう。大人の必要によって出た言葉ってことを、もっと自覚すべきだよ。この場合の「大人」って、ミドル(生産年齢人口)だよな。ミドルの必要のために、こんどはじいさんばあさんが要るわけだ。老人産業という必然性の中で、じいさんばあさんというのが設定されていく。
ガキも同じかたちで、ミドルにおける産業の中で、「子供の文化」というものを必要とする。実際は、俺も「老人」やってるんだけど、「老人」の実際と、「子供」の実際と、本当の意味でのずれが出てきちゃうわけだよ。子供は「子供」であらねばならなくなる。じじいは「じじい」であらねばならなくなる。自由なじじいでいることはなかなか難しい。
國分さん
五味さんはいま「老人」やってるぞ、ということですか。
五味さん
うん、一生懸命やってる。努力してますよ。
こないだ電話かかってきてさ、近所の赤坂警察の女性から。どうやら「じじい」の名簿があるらしいんだ。「ばばあ」もあると思うけど。
「最近、保険の還付金の詐欺がありまして、今日二、三報告がございまして、どうぞお気をつけになってください」と言うので、(おじいさんぽいしわがれた口調で)「ありがとうございます」って(笑)
國分さん
(笑)
五味さん
ヒマだったんだよ、その時たまたま。
「あのさ、ちょっと悪いんだけど、あなたが赤坂警察だって証拠はどこにあるの?」って訊いたんだ。
だって、その詐欺師も「ナントカ保険です」と言って電話かけてきて、それを信じるわけじゃない。それで詐欺にかかる。あなたも「赤坂警察です」という証拠はないんじゃないですか、と。
そしたらそのお姉さんが(声を荒げて)「ほんとの赤坂警察です!」って(笑)
國分さん
(大笑)
五味さん
(女性の高い声を真似して)「もし、お疑いなら、いま、この番号に逆に電話をかけてみてください!」
(普通の声で)「いやいや、冗談で言ったんだよ。たとえ話でね。まあそういうことがあるんで、俺は大丈夫だよ、ありがとう」と。すごく面白かった(笑)
國分さん
あんまり「老人」してないんじゃないですか、それは(笑)
五味さん
いやいや、老人の本性みせてやろうと(笑)
國分さん
そういうことですよね。
五味さん
要するに、「老人」やってるほうが楽なわけだよ、本当は。そうだろ?
あんまりガッツの無い人は、「もういいや」って(受け入れちゃう)。いや、ガッツじゃないな、そういう生まれつきの人ということ。
40過ぎて自分で「老人」だなと思ったら、いいと思うんだよ、老人宣言しちゃえば。本人が自覚すればいいと思う。でも社会ってのはなぜかデジタルにできてるから、70過ぎたら老人、とかあるじゃない。80過ぎて死んだら自然死、みたいな。すごいよね、あれ。
そういう、社会の中でのレイアウトということで、ガキなり老人なりということを言ったわけで。
(この話の)大事なことは、赤坂警察が怪しい、ということじゃなくて(笑)、社会を運転しているこの「装置」を作っている人間の思惑の中でレイアウトされてしまう「子供」というのが絶対いるということ。
國分さん
そこでかわいく、子供が「子供」っぽく振舞って「わかんないんだもん」なんてならまだいいんだけど、「こういう風に言うと大人は喜んでくれるんだ」とか、「こういう風にするとお父さんお母さんが満足してくれるんだ」と期待に応えようとしてやりはじめちゃうと、本当最悪なんですよね。
五味さん
哲学なんかのよく使う「装置」という言葉があるじゃない。一種の「社会の装置」という、ちょっと普通とは違うニュアンスでミシェル・フーコーあたりがよく使うけど、その「装置」の中でうまく生きていくためには、それに対応するような、あるべきレイアウトの中でうまく立ち回ること、今はそればっかりじゃないかなという気がするわけ。
國分さん
いや、本当にそうです。
五味さん
子供は「子供」らしく、という中で、「子供」らしくやらなくちゃいけなくなる。
私たちは何を目指してるのかなあ。
その装置をもっと完璧にして、もっと従順にレイアウトをされる人たちがいっぱいいる、操縦しやすい装置を目指してるのかな。そうじゃないだろう、という(ことはみんなわかってる)はずなのに、もう山場を越えちゃって、装置が勝ってるような。ちょっと懐疑的になるけど、もうじじいだし、「俺は知らないよ」みたいな(気持ち)。
その装置の中に入るか入らないか。もう組み入れられちゃっている、という恐ろしさをうすうす感じながら、でもまだその装置は未完成だし、今のうちに、自らの感覚に立ちかえるべきになってきてる、という気配を感じるんだよね。実際今の動きを見ているとね。
國分さん
なんか難しい話になってきましたけれども。
五味さん
(國分さんが)哲学者だって言うから……なんでも対応できるんだよ、俺。
國分さん
これ(『絵本のこと話そうか』)を読んでそう思いました。
本日は銀座蔦屋書店にご来店いただきましてありがとうございます。
アノニマ・スタジオより刊行された『対談集 絵本のこと話そうか』、『CUT AND CUT!キッターであそぼう』の刊行を記念して、絵本作家の五味太郎さんと、哲学者の國分功一郎さんによる「絵本と哲学の話をしよう」を開催いたします。
『CUT AND CUT!キッターであそぼう』は、五味太郎さんによる“頭をやわらかく使う”工作絵本キットです。そして『対談集 絵本のこと話そうか』は、28年前に刊行された『素直にわがまま』(偕成社)をもとに復刊されたものです。絵本専門誌である「月刊MOE」にて、当時の編集長松田素子さんが、「ものをつくる」ということについて、あらためてさまざまな方たちにちゃんと話をお聞きしたい、という気持ちからはじまった、リレー式の対談がたくさん掲載されています。本書に一番多く登場するのが、五味太郎さんです。
ここにいらっしゃるみなさんをはじめ、五味さんの絵本を愛する読者の方は世代を超えてたくさんいらっしゃると思います。哲学者の國分功一郎さんも、すっかり五味さんの絵本に魅せられている読者のお一人です。そこで今回はこの二冊の刊行を記念して、お二人に「絵本と哲学」のお話をしていただきます。トーク終了後にはサイン会も開催いたしますので、こちらもあわせてお楽しみください。
と、いうことなのですが……
(ステージには國分さんのみ)
國分功一郎さん
えっと、五味さんは今、たばこを吸っています(笑)
五味さんてどういう人なのかなと今日けっこうビビって来たんですけど、そういう感じの方なんですね。
僕は、娘が小さい頃に絵本を読んでいて、五味さんの本を発見してものすごい大好きになりました。これ(『かくしたのだあれ』)とか特に好きで、子どものらくがきが本にたくさんしてあるのを先ほど五味さんに見せたら、「これがいいんだよ〜最高だよね!」とおっしゃって頂きました。これすばらしい内容なんです。ちょっと小さくて見えないかもしれませんが、五味さんのすごいインパクトのある写真(*巻末の著者近影)がのっていて、娘と一緒に「こんなかわいい本なのに、五味太郎ってなんか、怖い顔してるね!」と娘と言っていたのが、最初の頃の思い出でした(笑)
今日、いろいろ好きな作品を持ってきました。と、こうやって話しているうちに五味さんがいらっしゃると思います。
これ(『さる・るるる』)知っている方も多いと思うんですけど、今日五味さんに聞きたいと思っているのが、言葉と絵の関係。五味さんの本って言葉がすごくリズミカルで、「さる あさる」「さる かいあさる」「さる かざる」「さる おぶさる」「さる まざる」「さる リハーサル」、とこういう風にいくわけですね。
「さる リハーサル」というところは、僕本当に爆笑してしまうんです。えっと、まだ五味さんいらっしゃらないから、「よみきかせ」的にこれを読みたいと思います。一番好きなのがこれ(『ヒトニツイテ』)なんですが、みなさんご存知ですか?
あ、五味さんがいらっしゃいました!
どうぞ、五味太郎先生です!
(会場から拍手)
なんとなく、はじめておりました。
五味太郎さん
おまえ、誰だっけ?
國分さん
國分といいます(笑)
司会
あらためまして、絵本作家の五味太郎さんと、哲学者の國分功一郎さんです!
(拍手)
五味さん
(スライドの『かくれんぼかくれんぼ』『かぶさんとんだ』を見て)
なんか、昔、ちゃんと描いてたなあって、感動するね、本当に。
國分さん
今はそうじゃないんですか?
五味さん
うん、まあ、いいや。
■あまり売れなくてよかった
國分さん
今、僕の好きな本を紹介していたんです。
五味さん
ありがとうございます。
國分さん
なのでちょっとだけ、話の続きをさせていただければ……すみません。
五味さん
この人、学校の先生だからね。理屈が多いのよ。
國分さん
僕この『ヒトニツイテ』がとにかく好きで、本当にこれはもうすばらしいというか、ちょっと衝撃的なものですよね。
五味さん
それが、あまり売れなくて良かった。
國分さん
あ、そうですか。
五味さん
それがすべてじゃない?もう総論だもの。それ1冊で終りっていう感じなの。これがあんまり売れなかったから、各論をいっぱい売っていけるわけ。
國分さん
これは五味太郎哲学の総論なんですね!
五味さん
考えたら、「人について」ずっと考えているわけだから。ほかのものについて興味はないし。「人について」考えて、描き切ってるよね、それ。実は早稲田大学のゼミでずっと教科書に使ってくれている先生もいらして。一度そのゼミに呼ばれたよ。「人生これだけ読めばいいよ」って言うから「ちょっとそれじゃ色気ないよね」って。「これさえ読めばいいんだ、バイブル(聖書)も何もいらない」と言われて、「それは言い過ぎでしょう」と。つまり、もうこれ以上描かなくていいということを言うわけ、先生は。でもそれだと俺はつまらないし、なかったことにしようと(笑)
國分さん
みなさん、これ読んでない人はぜひ……
五味さん
いや、なかったことにして(笑)
國分さん
売れなかったんですか?これ。
五味さん
売れないんじゃなくて、売らないんだ、なるべく。
國分さん
五味さん、と呼ばせていただきますが、五味さんはご自分の本がかなり好きなタイプとお聞きしたのですが。何回か読み直したり。
五味さん
(読むと)いい人だなーと思うよね。ファンレター書こうかなと思うくらい。要するに、センスが似てるわけ。
國分さん
それは、そうですよね、本人ですから(笑)
五味さん
家でもずっと読んでるわけ。ちょっとあまいなと思うこともあるんだけど。「この人いい人だなー」と。あたりまえだよな。
國分さん
いや、あたりまえではないと思います。あたりまえじゃない人もいると思います。僕も自分の本好きで何回も読んじゃうんですけど、自分の本が好きって大事じゃないかなと思います。自分で作ってるんですから。
五味さん
俺は「自分の本好きじゃない」っていうやつとも会いたいけどね。
國分さん
まあ、それもそうですね。
五味さん
それ、面白いことだと思うんだよね。そういう感覚もあっていいと思うし、たまたま僕は能天気な場合だったというかね。
■わかる、わかんないってどうでもいいよね
國分さん
今日は「どういう話にしよう」ということは何も決まっていないんですが、会場のみなさんに、このまえ鷲田清一先生が朝日新聞の「折々のことば」で、五味太郎さんの“わかるわからないということじゃない価値観がないかなと探ってる”という言葉、この復刊された『絵本のこと話そうか』の中の言葉をご紹介しているのをお配りしています。これはすごく五味さんの、ある意味でのスタイルを象徴している言葉だと思いました。
五味さん
そんなこと言ったのかな(笑)
あえて言い方がもたもたしてるんだろうけど、あえて自分の言葉を自分で翻訳するのも変なんだけど、もうちょっとわかりやすく言えば、「わかる、わかんないってどうでもいいよね」ということ。「わかるわかんないってことより大事なことがあるだろう」という。「いや、ありません」と言われたらそれまでなんだけど、もっと価値のある判断基準があるな、とは思ってるね、実はね。
國分さん
この対談集、僕すごく面白く読んだんですが、この中で最初の頃、『おじさんのつえ』について「内容がない」とか「子供にこれを教えたいということがない」とか、批判・批評されたというご経験について語っていますね。「半分嬉しかった」って(笑)
すごくさきほどの言葉と共鳴している感じがしました。
五味さん
やりながら気がついたことなんだけど、「絵本」というスタンスが全然違うんだよ。始めてから気がついてどきっとしたんだけど、絵本って「子供のために」とか、「子供に何を与えるか」ってことが主流だったような気がする。俺は絵本を勉強して入ったわけじゃないし、そういうことだったら別に俺は入る気なかった。
國分先生もさ、急に「先生」って呼ぶけど(笑)
國分さん
先生じゃないですよ(笑)
五味さん
「先生と言われるほどのばかじゃなし」って言葉あるよなあ(笑)
いや、ばかにしてるわけじゃないんだ。「哲学」とよく似てると思うんだけど、「哲学って役に立ちますか」みたいな話ってよくあるよね。単純に言うと、哲学って大いなる遊びだから。人間がどこまで考えられるか、あるいはどこまで考えを否定しながらさらに否定で肯定していくような考えが可能だろうか、って遊んでるわけじゃない。ギリシャ、ローマの頃、もっと言うと古代インドの頃から、もっと前かな。そうやって延々とやってきた哲学というものが、20世紀に入って一種の実利主義みたいのが出てきて、役に立つか立たないか、みたいな話になって、元気がなくなっちゃった。役に立たないんだよな。
國分さん
役に立つんですか、と言われたときに、その問いにのっかっちゃいけないんですよね。それを無視して、「哲学というのはですね……」と答えるのが、僕のしていることです。
五味さん
「それはともかく」って言葉、いいよね。
絵本も実はおんなじで、「子供の役に立つか立たないか」なんてことをずっと問うている編集者は気の毒だよね。はじめから矛盾していることを問い続けていかないとならない。もっと行くと、「子供をどうやって導くか」となる。「人を導く」なんてことを昼間から本気で言うようになったら、人間おしまいだよな。
國分さん
本当、そうですね。
五味さん
こわいでしょ。宗教もそうだよね。宗教的な原理で動いている社会というのを俺はどうしても信用できない。あらゆる宗教、あらゆる教育。これを俺は相当疑ってるんだなということに、この仕事やりながら気がついた、だんだんだんだん。そこでいつもバッティングするのは、「子供たちに良いものを与えたい」ってのは余計なお世話だ、って話なんだよね。
國分さん
すばらしい話だな、それ。今日の名言(笑)
五味さん
すばらしくなんかないんだよ。そしたら「じゃあさようなら」、おしまいだよ(笑)
だから、『ヒトニツイテ』が売れなくてよかった、って、そういうことなんだよ。というより、もちろんあれはそういう議論があってはじめたわけでは全くなくて。心うれしい作業をずっと続けていて……君にとっても、考えることの面白さというのがあるんだろ。嫌なガキなんだよね(笑)俺なんか本当に、今から考えると嫌なガキだったと思うけど。
「導かれたい」と思ったこと、一回もないわけよ。ところが、いろんな人がやってきて「あんたを導く」みたいなことをいっぱい言うわけ。で、僕は生まれが良いから「いらねえよ」とは言わない。「ありがとうございます」と言っておいて、どうやって逃げるか、みたいなことばっかりやってた気がする。なんで俺が導かれなくちゃならないんだ。びっくりするよ。なんでみんなこんなに導いてくれるんだろうか。導きたがるんだろうか。
今たまたま日本という国は原理主義の国じゃなく、ある宗教(的なもの)をベースにして社会を作ろうってことをやらなかった、ありがたい国だけれども、たとえば教育というシステムみたいなものは、もう一回考え直したほうがいいなと思ってる。別に社会運動はしたくないんで、あんまりそういうことは言わないけども。
■仕事ってつくればいいんだよ
國分さん
五味さんて、創った作品をどなたかに見てもらって、「これは絵本だよ」と言われて、そんな感じで始められたみたいなことをお聞きしたんですけども。
五味さん
ああ、そういう友達がいてね。作業してたら「それは絵本だよ」と言って、出版社のリスト作ってくれたり……いいやつがいるんだよね、世の中には。
國分さん
リストまで作ってくれたんですか。
五味さん
あいうえお順でね。2、3電話をかけて、「い」に岩﨑書店があったんだけど、そのリストをつかったのはそこまでで、すぐにスタートしちゃったから、そのリストはあまり活躍しなかった(笑) 文化出版局はリストのずっと後の方だったけど、そんなに深い理由があったわけじゃなく、近所にあったから行ったんだ。
要するに既成の絵本をみて「この世界に入ろう」と思ったわけじゃないんだよね。そういうものがあることはうすうす知ってたんだと思うんだけど(笑)
ディック・ブルーナさんの『うさこちゃんとうみ』なんてのは昔から手元にあった覚えがあるし、絵本らしいものも(手元に)あったんだけど。作業してるときに「こういうの、出版社に持って行ったほうがいいんじゃない」という友人がいて、「あ、そっか」みたいな感じで。
ただ、俺にもやることいろいろあったし、今もあるし(笑)、そんなに絵本にこだわってるわけじゃない。「なんとか食えそうだな」というか。ごはんを食べるとか稼ぐということ、あんまり考えなくても得意なんだよね、俺。
國分さん
さっき「導く」って話がありましたけど、そして五味さんが周りに導かれるという話がありましたけど、五味さんといると周りが五味さんを導くというか、うまく乗っかってくとお金が入るみたいな、そういう感じですかね。
五味さん
それほど楽じゃないよ(笑)
國分さん
すみません、言い過ぎました(笑)
五味さん
というより「俺は何かするよ」っていう感じが昔からある。
何かすればそれは当然、労働の対価みたいなことだから、お金が来るんだよね。
今「仕事がない」みたいなことを言う人がいるけど、そういう状態がよく理解できない。仕事って、作ればいいんだよ、という感じ。待ってると仕事は無いだろうなと。余計なおせっかいをすればいいわけじゃない。たとえばダンボールが積んであって、おっさんに「このダンボールどうすんの」って聞く。「業者が運ぶんだよ」と答えたら「俺が運ぼうか」と言えば「じゃあ頼むよ」と、そんなようなものよ、その程度。
■気が合えば、趣味が合えば、面白いものは面白いんだよね
國分さん
すごくよくわかりました。
少し話は戻るんですけど、「絵本作家」五味太郎を考えるときに、子供が先にないということですよね。
五味さん
全然ない。
國分さん
全然なくて、作っていたら「これ絵本かな」という。
五味さん
だから、すごい簡単なんだよね。気が合えば、趣味があえば、面白いものは面白いんだよね。合わなければ面白くないものは面白くない。それだけ。だからガキを導く気は全くない。導かれなくて全然いいわけ、やつらは。本当にあいつらは、清らかな存在だよね。全然導いてくれなんて言ってないもん。彼らが読めるように考えてる。だから、大胆に飛ばす。実は俺も同じで、読めない漢字が出て来たら飛ばすよね。
國分さん
それはそうですね(笑)
五味さん
だいたいざーっと読んで、戻って読んで、わかんなければ、飛ばすわな。大体飛ばしてもわかる。勘がいいんだよ。「このあたり本題に関係ないな」というのがわかるんだよね、瞬間に。さっと読んでわかんないのは、文章が悪いと思うわけよ(笑)
國分さん
それはそうです。
五味さん
試験なんかも、ぱっと見て分かんないのは、「これ、問題が悪いんじゃないですか」とか言って怒られてた(笑)
彼らは反省しないから、「いや、問題は悪くない」と言ってたけど。
要するに、子供は子供並みよ。それで十分じゃない。僕たちもそうだし。
もっと言うと、「子供」って言葉を、「大人」との対比で使うの、めんどくさいね。あいつらちっこいんだよね、それだけの話。ちっこくて、まあ経験が少ないから経験値が足りない。あと金持ってないね、あいつら(笑)
國分さん
ああ、それ大事ですね。つまり親に買ってもらわないといけないから(笑)
五味さん
それらだけが彼らのファクターであって、ほかは何も変わんないよね。全然変わんない。
國分さん
そういう風に僕も思います。ただ今五味さんに言われるまで、そういう観点を忘れていた気がします。
五味さん
どういう観点持ってた?
國分さん
子供は子供で、守ってあげなきゃいけないという気がすごくするような……
五味さん
やっぱりフランスの哲学をやっていると、当然ヨーロッパの精神史みたいなものに触れるはずだし、つまりルソーのあたりに「子供が発見された時代」みたいなのがあるじゃない。それまで「子供」じゃなかったんだよね。ちっちゃい人間だったんだ。あのころが幸せだったのかなと思う。イギリスでディケンズみたいな人が、皮肉にとんでもないガキを書くよね。そういう時代があって、ある時点で「子供にも人権あるよな」というような、あたりまえのことをあらためて感じちゃった。そういう紆余曲折の中で、「子供」というのがやっぱり、大人にとって必要だったんじゃないかな。これは難しい話だけど、先生にとって、生徒が必要なのと同じだよな。
國分さん
そういうことかもしれないですね。
五味さん
でも生徒にとって、先生ってあんまり必要じゃないよね。
國分さん
そうですね(笑)
五味さん
ここがきついとこだよな。(あなたは)必要と思われる先生になってね(笑)
國分さん
はい、わかりました(笑)
■「児童書」という言葉がなくなればいい
五味さん
だから、子供にとって「必要だな」と思わせる大人になっちゃえばいいんだよな。大人にとって「子供」は必要なんだもん。小学校なんて最たるものだぜ。
学校を経営するためには子供がいないと格好がつかないだろ。本当はお客さんなんだよね。ところが「あなたがたは導かれるべきものだ」という風に設定してあるわけよ。医者と患者の関係に似てるよな。「あなたは私が治療すべき人だ」という。俺は「もういい」と言っているんだけど、「いや、まだまだ悪いですよ」と言われる。実際悪いこともよくあるよな(笑)
つまり、一種の産業資本主義的な枠組みの中で、対象としての必要性で「子供」を設定しているような気がする。 そうすると、子供も「子供」をやんなくちゃいけなくなる。ここで、器用なガキはなんとかこなせるよね。いるんだよね、子供の中にもそういううまい奴が。「ぼくわかんないもん」とか言って、かわいがられて。
國分さん
いますよね。
五味さん
存在そのものはもちろんかわいいんだけど、あえて「子供」をやらなくちゃならないところに一種の二重性みたいのが出てくる。
どんなきれいごとを言おうと、商売でしょう。「子供」のために売るものを作ってる奴が、言い訳として「子供の文化」みたいなことを言い始める。よくあるように「絵本は何で必要か」、と「必要」を言うんだ。知識と情操と何とかかんとか、と苦しいことを言うわけ。絵本は「児童書」とか言われてるけど、俺はまったく無視してる。いらないもん。
國分さん
「児童書」という言葉がなくなればいい、と。
五味さん
そう。大人の必要によって出た言葉ってことを、もっと自覚すべきだよ。この場合の「大人」って、ミドル(生産年齢人口)だよな。ミドルの必要のために、こんどはじいさんばあさんが要るわけだ。老人産業という必然性の中で、じいさんばあさんというのが設定されていく。
ガキも同じかたちで、ミドルにおける産業の中で、「子供の文化」というものを必要とする。実際は、俺も「老人」やってるんだけど、「老人」の実際と、「子供」の実際と、本当の意味でのずれが出てきちゃうわけだよ。子供は「子供」であらねばならなくなる。じじいは「じじい」であらねばならなくなる。自由なじじいでいることはなかなか難しい。
國分さん
五味さんはいま「老人」やってるぞ、ということですか。
五味さん
うん、一生懸命やってる。努力してますよ。
こないだ電話かかってきてさ、近所の赤坂警察の女性から。どうやら「じじい」の名簿があるらしいんだ。「ばばあ」もあると思うけど。
「最近、保険の還付金の詐欺がありまして、今日二、三報告がございまして、どうぞお気をつけになってください」と言うので、(おじいさんぽいしわがれた口調で)「ありがとうございます」って(笑)
國分さん
(笑)
五味さん
ヒマだったんだよ、その時たまたま。
「あのさ、ちょっと悪いんだけど、あなたが赤坂警察だって証拠はどこにあるの?」って訊いたんだ。
だって、その詐欺師も「ナントカ保険です」と言って電話かけてきて、それを信じるわけじゃない。それで詐欺にかかる。あなたも「赤坂警察です」という証拠はないんじゃないですか、と。
そしたらそのお姉さんが(声を荒げて)「ほんとの赤坂警察です!」って(笑)
國分さん
(大笑)
五味さん
(女性の高い声を真似して)「もし、お疑いなら、いま、この番号に逆に電話をかけてみてください!」
(普通の声で)「いやいや、冗談で言ったんだよ。たとえ話でね。まあそういうことがあるんで、俺は大丈夫だよ、ありがとう」と。すごく面白かった(笑)
國分さん
あんまり「老人」してないんじゃないですか、それは(笑)
五味さん
いやいや、老人の本性みせてやろうと(笑)
國分さん
そういうことですよね。
■思惑の中でレイアウトされてしまう「子供」
五味さん
要するに、「老人」やってるほうが楽なわけだよ、本当は。そうだろ?
あんまりガッツの無い人は、「もういいや」って(受け入れちゃう)。いや、ガッツじゃないな、そういう生まれつきの人ということ。
40過ぎて自分で「老人」だなと思ったら、いいと思うんだよ、老人宣言しちゃえば。本人が自覚すればいいと思う。でも社会ってのはなぜかデジタルにできてるから、70過ぎたら老人、とかあるじゃない。80過ぎて死んだら自然死、みたいな。すごいよね、あれ。
そういう、社会の中でのレイアウトということで、ガキなり老人なりということを言ったわけで。
(この話の)大事なことは、赤坂警察が怪しい、ということじゃなくて(笑)、社会を運転しているこの「装置」を作っている人間の思惑の中でレイアウトされてしまう「子供」というのが絶対いるということ。
國分さん
そこでかわいく、子供が「子供」っぽく振舞って「わかんないんだもん」なんてならまだいいんだけど、「こういう風に言うと大人は喜んでくれるんだ」とか、「こういう風にするとお父さんお母さんが満足してくれるんだ」と期待に応えようとしてやりはじめちゃうと、本当最悪なんですよね。
五味さん
哲学なんかのよく使う「装置」という言葉があるじゃない。一種の「社会の装置」という、ちょっと普通とは違うニュアンスでミシェル・フーコーあたりがよく使うけど、その「装置」の中でうまく生きていくためには、それに対応するような、あるべきレイアウトの中でうまく立ち回ること、今はそればっかりじゃないかなという気がするわけ。
國分さん
いや、本当にそうです。
五味さん
子供は「子供」らしく、という中で、「子供」らしくやらなくちゃいけなくなる。
私たちは何を目指してるのかなあ。
その装置をもっと完璧にして、もっと従順にレイアウトをされる人たちがいっぱいいる、操縦しやすい装置を目指してるのかな。そうじゃないだろう、という(ことはみんなわかってる)はずなのに、もう山場を越えちゃって、装置が勝ってるような。ちょっと懐疑的になるけど、もうじじいだし、「俺は知らないよ」みたいな(気持ち)。
その装置の中に入るか入らないか。もう組み入れられちゃっている、という恐ろしさをうすうす感じながら、でもまだその装置は未完成だし、今のうちに、自らの感覚に立ちかえるべきになってきてる、という気配を感じるんだよね。実際今の動きを見ているとね。
國分さん
なんか難しい話になってきましたけれども。
五味さん
(國分さんが)哲学者だって言うから……なんでも対応できるんだよ、俺。
國分さん
これ(『絵本のこと話そうか』)を読んでそう思いました。
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五味 太郎
1945 年、東京生まれ。工業デザインの世界から絵本の創作活動にはいり、ユニークな作品を数多く発表。子どもからおとなまで、世界中に幅広いファンを持つ。著作は 350冊をこえ、多くの絵本が世界各国で翻訳されている。 代表作に『きんぎょがにげた』『みんなうんち』『言葉図鑑』『さる・るるる』などがある。近刊に、カッターをつかった工作セット『 CUT AND CUT!キッターであそぼう!』、セットに含まれるカッターのアイデアブック『カッターであそぼう!』(ともにアノニマ・スタジオ)がある。
國分 功一郎
1974 年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は哲学。主な著書に『中動態の世界──意志と責任の考古学』(医学書院、第16回小林秀雄賞受賞)、『暇と退屈の倫理学』(太田出版、第二回じんぶん大賞受賞)『来るべき民主主義』(冬舎新書)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『スピノザの方法』(みすず書房)他多数。好きな五味さんの絵本は『さる・るるる』、『ヒト ニ ツイテ』、『かくしたのだあれ』、『たべたの だあれ』など。
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